で?っていう備忘録

再開です。

今はまだ力不足で書けなかった、ささやかな萌芽のほのめかし


ねとぽよ』という電子雑誌に記事を書かせてもらいました。
「ネットの平和を守る市民団体」という自称で(笑)、スマートフォンGoogle+を操るいまどきの若者が集まって、それぞれの得意分野への愛と知識と若さを披露し合う「場」になっています。ぼくの担当は日本の電子書籍業界の動向まとめです。自身初の実用文ということで緊張しておりますが、旬の話題がぎゅっと詰まっていてとってもお得だよ。


というわけで、今回は宣伝も兼ねて、ケータイ小説のことを書きます。
昔流行った、当時は世界最先端だった電子書籍です。


wikipediaがガッツリまとめているように、一時の流行はすさまじいものがありました。周知の通り、既に歴史的役割を終えた感はあります。貶すほうも褒めるほうも大げさだったし。ほとぼりの冷めたいま、回想すれば、ケータイ小説の流行によって、低リテラシー層向け文芸作品の市場がひとつ増えました。既存の少女向け小説の文法や「型」の定期更新に一役買って、情報化に出遅れている出版業界のなかでは、「本からケータイへ」の流れを先取りしていました。


ライトノベルと同様に、成熟し、複雑になった「この文学を読むときのお約束」に新しい読者がついて行けなくなっていると、注意深い作り手たちに気づかせたことも大きな功績です。その時まだ若者だった人たちの、青春の思い出にもなりました。生まれて初めて泣いた小説が『あたし彼女』だった僕が言うのだからまちがいありません。


とはいえたしかに、1作の完成された文芸作品として読んだとき、ほとんどすべてのケータイ小説は、既存の大衆文化の一部分を稚拙に真似た、不完全なものでしかありませんでした。具体的には、少女小説、少女漫画、大衆向け女性シンガー、中高生向け女性誌内読者投稿欄、ハーレクインロマンスが参照されており、読者/著者には地方在住の保育士や風俗嬢、主婦、学生が多く、ほとんどが女性でした。男性会員もいたし、なかにはテキストサイト時代からネットで文章を書いていて、ケータイ小説サイトに移住した人もいましたが、当時はまだまだ少数だったし、注目もされなかった。


そこではこんな女性像が好んで描かれていました。作品の有名/無名、完結/未刊を問わず、文化的に無知で、夢や望みは平凡で、価値観は保守的で、語彙は紋切り型で、出世欲がなく、そのくせ高望みしがちで、世間で浅く信じられている噂や擬似科学をまともに信じてしまう女の子。人気作の「型」が出来上がるうちに、男性人物像も類型化されて行きました。例えば、粗野で、男気があり、一途だが自己表現が下手で、喧嘩っ早いが、情には篤い男たち。『ケータイ小説的。』などの先行著書では「ヤンキー的」と総称されましたし、DQNの呼称を使う人もいます。


こうした人物たちの群像劇が、ほとんど未整形、無修正のまま、作品に反映されていたわけで、学生の打ち明け日記の域を出た作品は多くなく、「商品として見たときの」仕上がりが上等になるはずもありません(著者たち当人は、表現された作品より以上に魅力的であることもしばしばですが)。ケータイ小説の読者/著者は、手段である「語る技術」の洗練ではなく、その場で知り合える誰かとのちょっとした雑談や共感をこそ望んでいたようで、有名になった多くの著者は、世間からの褒貶入り交じった反響を歓迎しませんでした。米国の新聞記者ダナ・グッドーイヤーの取材に答えて、ケータイ小説作家の百音はこう語っています。

「私は自分がこれまで出版したほぼすべてのものを悔やんでいます。もっと包み隠せるはずだったのに、私はそうしなかった。そのことに深い自責を感じています。もし私が著名な小説家だったら、辺りを走り回って言うでしょう。「ねえ、私、小説家だよ!」でも私はそうじゃない。ひどい携帯小説を書いたケバいひよこの一人として扱われている。それを誇れると思いますか?」

「夕食のとき、私は彼女に、あなたの人生が何か変わったかどうかと訊いた。『全然』彼女は言った。『私はどんな点でもこれ(訳注:ケータイ小説が多くの人に読まれ、売れたこと)が私に何かをもたらしたとは思ってないんだと、わかってほしいです。』彼女は言った。『私はただの日本の女の子で、町を歩いてるほかの女の子と大差ありません』」


かく言う彼女の著書『永遠の空』は、2006年に「魔法のiらんど」へ公開され人気を集め、2007年に出版され、当年のベストセラーランキング10位に入っています(トーハン調べ)。現在は子持ち作家として、集英社ピンキー文庫の人気作家として活躍中です。ぜんぜん「ふつうの女の子」じゃない。もしくは、今どき得がたいほど「ふつうの女の子」だったのかもしれない。そんな彼女が、なぜ、あれだけ多くの読者に愛される小説が書けたのか。正確に言い換えれば、なぜ彼女の小説の周りには、熱意と愛情に満ちた数多くの読者たちが集まっていたのか。


このことを、ひねくれでも決めつけでもない、説得力のある書き方で、一冊の本にまとめた人は、日本にはまだいません。おそらく、海外にも。先の引用はこれに掲載された記事『I ♥ novel』の私訳ですが、「ケータイ小説には『源氏物語』以来の日本文学の伝統が…」なんて褒め方をしてくれていて、ありがたい限りではありますが(笑)、事実からは少し遠い。日本でも、かつて盛んに行われた論評を総まとめにしているのは、先にリンクを貼ったwikipediaの匿名氏だけです。


どうしてこんな事象が起こり得たのか。他でもなく、この日本で。ぼくもまだちゃんとした答えは用意できてないです。だからこの記事を書いたのだとも言えます。ただし、少なくとも言えるのは、長い年月が経ってぼくらが今をふり返ったとき、おそらく電子書籍はこうした「文化産業の地殻変動」の1現象としてのみ扱われるのかもしれない。今でこそ未曾有の激変のように言われていますが、もっと広くて長い目で見たとき、たとえばソーシャルゲームの隆盛や、ジャパニメーションのマニアックな人気、世界文学の質的な均質化、現代アート市場の投機目的化と紐付けたとき、そこには何かしらちがう景色が見えてくるはずです。


で、そういう「新しい景色」をいち早く見つけたくてたまらない人というのが、ぼくだと言うと自惚れが過ぎますし、『ねとぽよ』にも集まっていると書くと手前味噌でしょうが、しかし少なくとも平成の日本に生まれ育った誰かであることは確かなので、話がまとまらなくなりましたが、最近ちょっとやる気を復活させつつありますので、ぼくの最近作、お手すきの暇つぶしにでも、是非ともご笑覧ください。


というわけで、宣伝でした。一応購入リンクも貼っておきますね。近々卒論の粗筋も投下します。運転免許が無事に取れたら…。