で?っていう備忘録

再開です。

「遅い男」はなぜ老いたのか

『slow man』にやって来た著者


片足をなくしたポール・レマンが介助士相手の小さな失恋を味わって、前向きに生きていくやる気を失いつつあったとき、エリザベス・コステロが彼の元に訪れる。彼女は小説家だ。ポールを主役にした小説を書いていた。かれが気を落としているのを察して、かれの家へ顔を出す。かれの恋愛相談に乗り、いくつかの助言をする。読み手からすれば書き手(の分身)が自作へ顔を出したということなのだけど、そんなことは理解できないポールは彼女と口論になる。
「出ていってくれないか」とポール。
「あなたが私のところに来たんじゃない」と彼女。
「きみが僕のところにやって来たんだ!」
どちらの言い分が正しいのか。彼女はポールが自作に呼び出されたという。ポールは彼女が自宅へ訪ねてきたと言う。より確からしい答えを得るために、「彼女」をいくつかの層に剥いてみることを考える。
試しに「彼女」とは別の登場人物、介助士について考えてみる。彼女は『slow man』の登場人物で、自転車事故に遭って片脚を失った身寄りのない老人に想いを寄せられている。人妻だ。記憶が定かでないが、その女性はたしか東欧系の移民として、息子と娘の2人を連れて、オーストラリアに働きに来ている。シングルマザーだったと思う。初めの頃、ポールの自宅へ働き始めた頃は、子供の学費に悩んでいるなんて口にも出していなかった気がする。だから彼女は母であり、妻であり、女であり、働き手であり、外国人であり、老人の恋人になるかもしれない人で、そして何より虚構の人物だ。
いま、小説内で脱がせただけでも、彼女は7枚の「属性」を着ている。彼女がすでに裸の彼女になっているかは分からない。もし、彼女があらゆる「属性」を脱ぎ捨てたなら、彼女は、ぼくの目に見えない、かつて何枚かの「属性」を着た女が「居たところ」になる。手短に言えば空っぽだ。
『slow man』は南アフリカ出身のノーベル賞作家J・M・クッツェーが2005年に発表した長編小説だ。2012年12月に邦訳が早川書房から刊行されている。訳者は鴻巣友季子、邦題は『遅い男』。原作と同じ、片輪の欠けた自転車の絵が表紙に挿し込まれている。
あなたがいま日本にいるのなら、本作の書誌はAmazon.comで検索するのが手っ取りばやい。こうして書いていて、詳細がうろ覚えなのは、引越しをして、山積みになった段ボールのどこに『slow man』をしまったか、分からなくなっているからだ。邦訳を買うお金がないせいでもある。家電リサイクル法に抵触せず、運送費を下げ、不要品を即座に処分するために、あれほど予算が要るとは知らなかった。
よって、これから引用されたり、言及される部分は、所々誤っているかもしれないから、正確を期したい人は、本文を参照してもらいたい。無作法で申し訳ない。



エリザベス・コステロを脱がせてみる

さきほどの人妻とは別のやり方で脱がせてみるとこうなる。
書き慣れた人たちからすれば、「エリザベス・コステロ」は一種の“刺激物”だ。自作の物語の先行きがまずくなることを感知したJ・M・クッツェー(書き手)が、話の流れを逸らすために突っ込んだキャラクター。『slow man』という小説の内側で暮らす登場人物たちからすれば、彼女は謎の侵入者だ。自分たちが暮らす時空では認識できないやり方で闖入してきたことになる。また、他著での扱いからも察するに、J・M・クッツェーが小説についての持論を(自作語りする作者のどや顔を回避しつつ)平明に述べるために産み落とされたのが、小説外の書き手とは似てもにつかない分身としての作中作者、エリザベス・コステロでもある。もちろんそれ以前に、「エリザベス・コステロ」と初対面の読者(そして主人公)にとって彼女は、本の読みすぎでまともな頭の使い方ができなくなった痛々しい中年女性だ。
選り分けの手を広げて行けば、きっともっと細かく仕分けられる。エリザベス・コステロはさまざまな平面に同時に断絶なく居座っているから、彼女がどの世界に属しているのかを、一つひとつすべて答え抜くことはとても難しい。彼女が属するそれぞれの社交関係をソーシャルグラフにし、何枚にもなるそれらを重ね合わせれば、分厚いミルフィーユのような「彼女という存在」が造型できて、ちょっとしたメディア・アートの1作品にはなるが、それでも彼女の動き全体をくまなく追いかけるのには足りないし、用途からして、足りなくてもいい。だけどポールと彼女の口論は収まらない。どうすればいいのか。
回答のための補助線を引こう。次の引用は『slow man』の冒頭部分だ。『遅い男』の冒頭ではないことに注意してほしい。これはぼくの拙訳で、少なからず誤訳があり、ポール・レマンは身寄りのない老人だ。坂道を自転車で下っているところを車に轢かれ、病院へかつぎこまれる。

「まずい(serious)んですか?」もしひとつだけ質問できたなら、まずい(serious)という言葉の意味にかれがこだわりたくなかったとしても、こう尋ねられるべきだろう。けれどその問いの深刻さよりも切実だったのは、マギル・ロードでかれをこの何もないところに突き飛ばしたのはいったいなんだったのかという秘められた問いよりも切実だったのは、かれが家を見つけなくてはならないということ、かれの背後の扉を閉めなければならないということ、なじみ深いあれこれに囲まれながら、自分を癒していかなければならないということだった。
かれは右脚に触れようとした。あいまいな信号を送り続けている脚、いまや調子のおかしい脚。けれどかれの手は動こうとしない、なにも動こうとしない。
「ぼくの服は」たぶんこれは差し支えなく整ったこんな問いだろう。「ぼくの服はどこだ? どこだぼくの服は? それにぼくの容態はどれくらいまずい(serious)んだ?」
女の子がかれの視界に戻ってくる。「服は」かれは言う、かなりの思いをして、切実さを表現するべく眉を高くあげて。
「心配ないですよ」女の子は言って、また別の笑顔、前向きで天使的な笑顔で、かれのために胸で十字を切る。「みんな大丈夫です、みんな大切にしてあります。すぐに先生が来てくれますよ」そして確かに一分もしないうちに医者らしい若い男が彼女の傍に現れて、彼に耳打ちした。
「ポールさん」青年医は言う。「聞こえますか? ポール・レマンさん、でよろしいですか?」
「ええ」かれは慎重に言った。
「こんにちは、ポールさん。直にちょっとぼんやりしてくると思います。モルヒネを打っておきました。ちょっとのあいだ手術になります。強打されてるので、あなたがどれくらい覚えてらっしゃるかはわかりませんが、あなたの脚はちょっとまずいことになっています。どこまで救えるかちょっと見てみるつもりです。」
またかれは眉をつりあげる。「救う?」と言おうとした。
「脚を救うんです」医者が繰り返した。「切断手術になるかもしれないですが、やれるだけのことはするつもりです。」
その時かれの顔になにかが起きなければならなかった。若い男がびっくりするようなことをしたのだ。彼はかれの頬に手を伸ばして、そのまま手をそこに置き、老人の顔を優しく撫でた。女性がするような仕草だった。誰かを愛する女性が。その仕草はかれをまごつかせたけれどかれにはうまく引きはなせなかった。
「信じてくれますか?」医者が言う。
かれは黙ったまままばたきする。
「好かった」ちょっと立ち止まって「選択の余地はありません、ポールさん」とかれは言う。「選択肢のある状況ではありません。わかりますか? 同意してくれますか? 書類にサインして欲しいから訊いてるんじゃないですよ、このまま続けるのに同意してくれますか? やれるだけのことはしますが、かなりの衝撃を受けてます、かなりのダメージを受けてます、膝が救えるかどうかすぐには言えません、たとえば。膝はほとんどこなごなになってしまっています、それから脛骨も少し。」
話題にされているのがわかったかのように、これらのものすごい単語が不意の眠りから目覚めさせたかのように、右脚がかれにぎざぎざした白い痛みを送ってくる。かれは自分があえぐ声を聞いた。そして心臓の音が耳にも。
「よし」と若者は言って、かれの頬を軽くはたいた。
「動き出すべき時だ」(私訳)

「老人」と「脚」は何層あるか

青年医と老人が、老人の脚を切り落とすかどうか話し合っている。そのまま読めばそうだが、まずはわりあい易しい読み換えを試してみたい。もし「脚」が何か別のことを言うための暗号だったら。「老人」の「脚」を「切り落とす」。「老人」とは誰のことか。「脚」とは何か。「切り落とす」とどうなるか。「医者」は何をする職業か。「老人」に代入される語句に応じて、小説は顔色を変え、深みを持ち、物語の外との隔たりを広げていく。
表立っては言えないことや、ばらばらに言うとごちゃごちゃしてしまうこと、ほのめかすだけでかまわないことを、いくつも織り重ねてひとつの束にする。これは控えめな虚構の作り手がよくやる手口だ。自作に物語を「着せる」作業だと呼ぼう。このときには、気をつけたいことがある。自己引用で恐れ入るが、手短に整理すればこうだ。

月並みな言い方をすれば、この小説は(というかよく配慮の行き届いた小説はたいてい)3層構造になっている。1.みんなの遊び場。題材と意匠の完成度や参照元をめぐって語り合える部分 2.同業者向けの応接間。先行作品や同業者、作り手自身への嫌味、敬意、励ましに胸を打たれるところ 3.読み手にはそうとしれないやりかたで書かれている、ささやかな告白。たいていの娯楽小説は、1.でたっぷり遊べるような作りになっている。国際文学賞にノミネートされるような類いの、言わゆる高級な小説は2.への目配せも欠かさない。読み飽きてしまった人、すれっからしの人たちは3.にばかり目を向ける。
この小説は、1.と2.を楽しみたい人によく読まれているし、書き手もそう読まれるように取り計らっている。初見者にも、玄人にも楽しめる、ワン・テーマ型のショッピングモールみたいな作品だ。なんとなく心が弱って、元気の出る何かが欲しい時に訪れて、たっぷり遊んで、すっきりして帰って来れる、そんな空間作りになっている。(『僕らの街の郵便屋さん』より)


引用は、かつてぼくが『クォンタム・ファミリーズ』を論じたときのものだが、『slow man』にも同じことがあてはめられる。さっき言った「読み換え」とは、語の単位、文の単位、人物の単位、一冊それ自体の単位、それぞれの単位に折りたたまれているのを、勤勉に開いたり閉じたりして、裏をめくって見たり、表を撫でたり、奥まで探ったりすることだ。つきつめれば、とりあえず字が書いてある限りは、みんなの気持ちが折れるまでずっと続く、自分でない何かにより多く触れようという試みを、諦め、投げ出さないための手続き。こちらは「脱がせる」ことだと呼ぼう。
まとめると、何かを読み、書くというのは、二人以上の人が、それぞれが着たり脱いだりして来たものを、また再び、着せたり脱がせたりする、お互いに少し気恥ずかしくて、わりと面倒な営みで、小説はそのための場だということになる。商売人や通史家は別の理由をつけるだろうが、(時には歪な、時にはぼかした)性交が、小説に意味ありげに書かれるのも、この気恥ずかしさと面倒くささを、はっきりと示しやすい題材だからだ。ここで話を始めの問いへ戻すとこういうことになる。小説中に現れる、性交渉やその前ぶれになり得ることをすべて暗喩化して読んだとき、『slow man』は、ポールとエリザベスが「脱ぎ着」しているのを書き、それをぼくらに読ませることでもって、ぼくらと「脱ぎ着」しようとしている。



性愛と叙述が比喩でつながる時代・地域の小説

つまり、『slow man』は、作中人物間の対話を通して、書き手と読み手のあいだで起きるコミュニケーションの質を捉えなおそうとしている。そう読めば、作中に現れるあらゆる語句は、読み手がそう読みたいように読まれる。同語反復を減らし、『slow man』に即して言い換えると、読み手が作中の性愛と対話を同じものとしてみたとき、この小説に書き込まれた、性愛をめぐる老いや、疲れ、ためらい、孤独は、対話をめぐるそれと等値して理解できるようになる。
ただしもちろん、これはかなり強引な読み換えだ。人聞きが悪いが、一種の矯正や洗脳がなければ、読み換えようという着想さえ出てこない。まろやかに、慣れや親しみと呼んでもよい。かつては、といってもすでに何世紀も前のことになるが、西欧の人文学界でキリスト教がまだ余力を持っていた頃には、文学作品は、今日とはまた別の親しまれ方をしていたことだろう。作中に書き込まれた聖数が大切に読み取られたり、キリスト教史における重要人物にまつわる諸々の属性や小道具が殊に注目されたりしていたと推察できる。未証明だから話半分に聞いてほしいのだが、神学と文学が親しかった時代が終わり、「読み・書くこと」が極私的な孤独と短絡し易くなったあと、小説というジャンル自体への痛罵や懐疑が流行り、そうして二十世紀の終わりから今までにかけて、小説は、明示的/示唆的とを問わず、コミュニケーションの質を吟味する「場」としての役割を再演しようとしつつある。そんな風にぼくは小説史の見取り図を描いている(論旨から逸れるが、だからぼくはケータイ小説を、とりわけ『あたし彼女』を褒める。個人的な愛着の域を越えて)。
とはいえ話は何も日本の現代小説に限ったことではなくて、広く娯楽文化とかコンテンツ産業と総称される、良質な物語の伝播や保存に携わる仕事は、長いあいだ、さまざまな深さ、強さ、濃さのコミュニケーションが起こりやすい触媒を提供してきた。対人か否かを問わず、コミュニケーションが描かれたり、示されたりしないコンテンツは、ないと言っていい。「何か」が語として話され、書かれてしまったとき、あるいは、語としては話されなかった、書かれなかったと見なせる「穴」を他の誰かが見つけたとき、その「何か」や「穴」は避けがたくコミュニケーションの交通に巻き込まれてしまうからだ。
「誰か」が言ったことも、言わなかったことも、等しく「誰か」を浮き彫りにする。裏返せば、「何か」が言われた(が言い尽くされず)、言われなかった(が漏れ伝わってしまった)とき、初めて「誰か」や「何か」は手応えのある固有名詞として立ち上がる。ずるい言い方だが、それはおそらく実感として分かることだ。人には、この手の作業が、嫌になったり、上手にできなかったり、うんざりするときがある。もとを糺せばデリケートなことだから、些細なきっかけで、そういうのが苦手になる人も、怖くてたまらなくなる人もいる。
そうなってしまったとき、この、恥ずかしくて面倒な作業を、もっかいきちんとやっていこう、また好きになれるようにしようと書かれる小説は、たいてい苦くて、冷たいものになる。から騒ぎがまるで役に立たなくなるくらいだ。J・M・クッツェーはそういう小説を書いてきた。彼はケープタウンに生まれ育った白人系アフリカ人だ。イギリスで働きながら修士論文を書き、アメリカの大学へ博士論文を出し、ニューヨーク州立大学で教えながら小説を書いていた。母国のいたるところで、母国自身の手で引き起こされていた理不尽を、鈍感な人にはそうだと悟られないようなやり方で、さりげなく――つまりはあからさまに――作品に書き込んできた。
彼は、小説を書くとき、彼が秘かな言及と参照を惜しまない西欧の書き手たちと同じように、あるときもう立ち直れなくなるくらいつらいことに見舞われてしまい、疲れて、打ちのめされて、苦々しい思いで生きている人のことを、これこそといって選んで書いているようだ。紳士的で、明晰だが、冷たく、人を拒むところのある語りが目立つが、同業者間のお約束や、これまでの歴史をどれだけ踏まえられているかを度外視すれば、彼の小説は、コミュニケーションが生成する瞬間を書き留めたり、対話が起こりやすい「場」を作り上げる手際に優れていて、人の心を打つ。だから優れた書き手として評価されている。
もっと言えば、歴史への接続や、お約束との戯れも、「何か」へ触れようとする試みではあって、国際的に評価されている書き手は、例外なく、基本条件として、この、「何か」に触る手つきがとても見事だ。
俗っぽい発想だが、世界文学の市場でどうにかやっていくには、その上で、さらに加えて何か、飛びぬけて特筆するべきことを、その作家や作品が兼ね備えていることが望ましい。理屈を言えば、競争相手はこれまでに地球上で書かれたすべての優れた作品なのだから、単に小説として出来がいいだけでは足りない。たとえば人類史に稀有なできごとの記録であるとか、文化水準の成熟に応じて人がしばしば味わいやすい苦難や、悲しみ、喜びを詳しく書いてあって、読むとすぐさま追体験できるとか。「魂を高める」ためとは、肝心のところをぼかした上手い言い方だが、書き手の暮らす時代・地域をはるかに越えたその先にいる誰かが、その人に関わりのあるものを読んで、何かしらの見本として利活用できる、つまり「魂を高める」のにうってつけだ、とか。そういうのが要るようだ。



卒論は速やかな倫理規則の要約を求めた

ぼくはいま、無名の片隅で、一人の(日本以外ではとても)有名なノーベル賞作家の近作がなぜ面白いのかを突き止めようとしている。専ら暗黙に、個々の書き手の心中でだけ行われ、それぞれが察しあってきた作法、マナーを明らかにしようというのだから、野暮な試みではある。また、この試みはたとえば、ある時代・地域における金融市場の過去の変遷を見える化するようなもので、正確を期せば期すほど、当然、実用に耐えなくなる。理論付けは市場動向に先立たないからだ。また、理論に明示され、跡付けられた事実は、たちどころに規則化され、市場の交通に定めづらい偏りを生み出すからだ。
後者について詳しく言うと、たとえば「困っている人がいたら、助けてあげましょう」が、人類共通の「きまり」だということになったとする。この決まりは動かしがたく、しかも、誰もが知らずにはいられないものだとする。すると人は、困っている人を助けたり、困っている人を見捨てたりするようになる。そこで初めて自分が困っていることを知ったり、困らないように心がけたりもする。たいていは順序が逆で、「困ったこと」をめぐる数人のいくつかの行動パターンが押し広げられて、「もし困っている人がいたら」という規則になるのだろうが。ここで言う「きまり」は価値だと言い換えてもいい。意味だと呼んでもいい。市場は社会と置き換えてもさしつかえない。
こうした市場全体の統制や管理のやり方を、文学作品だけを限定的に取り扱って、はっきりさせていくのが、もともと文学研究の仕事のひとつだった……はずなのだが、この手の話題はどうしても人目を気にせずに語りづらい。個別銘柄の良し悪しや盛衰に話が傾きやすいし、勢い、わかりやすくざっくりした説明や、細かくて伝わりづらい説明が多くなる。研究が十分に進むと、守るべき作法みたいになって、おおよその見通しをつけたり、覚えるだけでもひと苦労になってしまう。
だからもうちょっとこう、すっきりした言い方ができないものか。体感では、質のよい作品を何十冊ばかり読んで、妥協のない作品を何作か書けば、こんなものかという手応えが、多少なりとも分かるようになるが。それでは説得力がないし、初めての人にわかりにくい。文学上の法律文集を管理・更新する仕事だ。さまざまな職種の人が手分けして作業に当たっている。たとえば国語教師、大学教授、文芸編集者、書評家、小説家、そして読者たち。しかしこんなに多くの人が関わなければならないものなのか。
個別銘柄の評価や市場動向の把握にやたらと時間・人手がかかっていて、良し悪しの当てっこは楽しい賭け事みたいになっているが、もっと速やかに、黙々とできないものか。倫理と意味と価値を一覧できて、生涯のうちに読みきれる、わりと手近な情報コンテンツの、設計図だけでも作れないものか。判定が部分的にでも自動化できれば、私たちはもっと別のことに意を割けるのではないか。そのようなことを考えながら、卒業論文を書いた。できそうになかったから、鬱々とした書き方になった。
評価制度の総体的な立ち上げは、ぼく一人の手には負えないから、文芸作品を適切に評価するのに必要な、大原則の要諦だけを記述できればというつもりでいた。目配りが過ぎて、まとまりのない、散らかった、だらだらと長いだけの、放言録めいたものになってしまった。
でも、現代の日本文学研究のスペックでは、ぼくらが書店で何気なくやっている、初めの1頁をぺらっとめくり、なにやら厳かに数行を読む。ぱたん、と閉じる、損をした、という顔で書棚に戻し、仲間たちに、「あの作家も落ち目だね。あんな荒っぽい筋書きで。あからさまに手抜きしていやがる」と言いふらす。そんな即座の判断にさえ、追いつけそうにない。文学研究は数少ないまっとうな市場評価機関であるはずなのに。それがぼくはどうにも納得できなかった。
あるいは、こうした即座の判断を裏付けているのが、人が長年、何世代も費やして、気が遠くなるほどの手間とお金を使って積み立ててきた、良質な物語の貯金とでも言うべきか、一群は「世界文学全集」とか「古典文学大系」としてまとめられているあれだということも、うまく受け入れられなかった。底辺からでは見えにくい格付けにも、底辺にいる自分にも、格付けを疑わないどころか考えなしに従うだけでなくそれでいて楽しそうな人がいる、しかもかなりたくさんいると、承服できなかった。



『summertime』は何を縮約したのか

たとえば『summertime』は、J・M・クッツェーが2007年に発表した長編小説で、彼自身3度目となるブッカー賞候補作となった。著者が昔に関わりを持った女たちへのインタビュー集、という体裁の作られ方をしている。この小説の読みどころは、クッツェーが「かつてクッツェーを愛していた女」の声を借りて「クッツェーと過ごした日々」を回想する、という手の込んだ手口を見せつけられたとき、読み手自身に生じる、戸惑いや、驚き、目のやり場のなさにある。そう措定しよう。
とだけ言うと、誤解を生むだろうから書き添えると、彼の小説は、何よりもまず、選りぬきの言葉たちで潔く切りつめられた情景やイメージ、「声」の積み重ねで出来ている。そのミルフィーユの重ね方がしつこくなくて、物足りなくもなくて、ちょうどいい感じになっている。「お話作り」や「情景の描き出し」や「声の撃ち込み」が上手い。ぼくのリテラシーでは、捨て文のなさに驚くくらいのことしかできないのだが、世界文学史上に彼が顔を出したとき、世界が何かに衝撃を受け、価値を見出したことは事実だ。彼の最近作は、技術水準を見ればとっくに当落線のはるか上に位置している。
身近に起きるには「ありえない」し、遠くからの噂を聞く分には「ありふれた」物語を、『summertime』はなめらかに語っていく。そうして、クッツェーが捏造した「クッツェーについて語る女」が、極めて事実らしく、まるで昨日のことのようにして話す、懐かしい日々の思い出を読んでいると、ぼくは、自分がいつ、どこで、なぜ、何を読んでいるのかよくわからなくなる。
この小説をどうすれば正しく評価できるのかと途方に暮れる。これは同業者を褒めるお決まりの美辞麗句ではない。優れたものを、どこがどうだと詳しく言わずに、ただ優れていると言うのは、慣れさえすれば易しいことだ。しかしぼくが求めているのは、数え切れないほどある優れたものたちを、五十音順とか年齢順に頼らず、誰もが頷けるような並びで並べる「並べ方」だ。あるいは、異を唱える人が一人としていない「誰もが」だ。
人にそんなことはできそうにないが、工夫次第では、それなりにやれるかもしれないと思っているし、既にわりとできつつある感じもする。言い換えればぼくは、生涯という大量の情報を、機械か市場に読ませて、出てきた回答を少数の人で分析し、採点できないかと考えている。文学が、これからも、とりもなおさず大量の人々の生き方や人柄、すごくいい言葉を眺め渡して、これはという部分を抜き出し、きれいにして人前に出すことに注力していくのであれば、いまはまだ手作業でしなければならないことも、いくらかは機械化できるようになるはずだ。そうすればいつか、『万葉集』は半日で作れるようになるだろう。『千夜一夜物語』は本当に独力で書けるようになり、あなたの人生のハイライトは数百行で無駄なくまとめられる。さすがにあり得ないが、いつの日か、ぼくたちをすっかり満足させてくれる娯楽の海が、万人に必要十分なだけ揃えば、ぼくらはまともに生きることさえしなくて済むようになるかもしれない。
予想されるありがちな反論に応じるなら、文学に統一の評価など要らない、等級付けはするべきでないという人は、いま時点ですでに公然と行われている選択と排除に疎い。運悪く見捨てられ、忘れ去られていった古今東西の大量の有名な傑作たちが、いまやきれいさっぱり表に出なくなってしまっていることに鈍感だ。もっとも、それは恵まれていることの裏返しでもあって、そのことを口やかましく責めるつもりはないけれど。むしろ、冗談や建前でさえなく、無自覚にそういうことを言える人がいたとしたら、その人はこれまで、好きなものを好きなだけ好いていい暮らしをして来られたのだろうから、正直、すごく羨ましいのだが。
それから、ここではたまたま小説を例にしてはいる。自分にはまるで縁のない、時代も、地域も、世代も、教養の程度も異なる誰かということで、クッツェーを取り上げている。いくつかの理由からそうしたほうがまだましだと思ったからだが、別のやり方で同じ試みをしている人だっていくらでもいるだろう。
しかしあなたの提言は夢物語に過ぎないのではないか、という批判は正しい。誤解されやすいのだが、ぼくはと或る娯楽文化の一領域に飽きているのではない。全体に飽きているのでもない。娯楽文化市場でたまたま出会った匿名のぼくとあなたはどちらも・いつでも・誰にでも互いに入れ替えできて、「この人だけ」という組み合わせは結局のところ見つからないのだと嘆きたいのでもない。喜びたいのでもない。
一ユーザとしてのぼくが、その日の具合でそんな気分になることはあっても、一プレイヤーとしてのぼくは、どうやら――半ば呆れたことに――、たとえぼくの表向きの言明がいくらあやふやでも、娯楽文化の磁場が生み出す周遊の波から外れたことは、これまで一度もなかったし、たぶんこれからもない。



ゲームのルールは都度毎に廃案されるべき

ではなぜぼくはこうも、正しい評価ということにこだわるのか。さっと答えたい。倫理の健全な要約をしたいからだ。14世紀の日本で生きた公家と、21世紀のパキスタンを生きる携帯電話販売店員、どちらがよりよい人生を送りがちなのかを正しく知りたいと思っている。言い換えれば、と或る誰かの人生は頭からつま先まですっかり失敗で、劣悪で、汚らしく、省みるべきところのないものだった、その人はこの世に生まれてくるべきではなかったし、生き延びるべきでもなかった、なるべくすぐに死ぬべきだったのだと、過たず言い当てられるようになりたいのだ。誰かれの人生は誤っていなかったと証明するには、際限なくつきまとってくる無尽蔵の反例と付き合わなければならない。だが、どういう条件を満たせば、その人の人生は結局的に失敗だったと見なしてよいかが分かれば、理論的には、ぼくらは二度と同じ誤ちを繰り返さずに済むはずだ。コンテンツ産業は、そのための膨大な例証と、微細な差異を見極めるコツを、人々に提供してきたのではなかったか。
小説は娯楽文化の一分野だ。娯楽文化は、膨大な人の膨大な生のなかでも、ぜひ知っておくべき、かけがえのない体験や知識を伝え、広める仕事をしている。ふつうそうは考えられていないが、娯楽文化は、宗教的信仰とも、公共放送とも、芸術活動とも、単なる生活習慣とも分かちがたく結びついている。互いになわばりを侵しあってもいる。ちょっとした条件を満たせば、等値可能でさえある。ここではそう仮定している。等値のための接続経路を開放したまま話をしている。常にそうすべきか、ぼく自身には答えが出せていないのだが、世界文学史上の上位を占める大型有名銘柄たちは、ほとんど無前提に、小説や詩、演劇などを、娯楽文化一般のみならず、言語行為や社会生活に関わるあらゆる事象と紐づけている。ここではそれに則る。閉じたとき、どういう話になるかは別の機会に示したい。きっと市井の芸人論になる。
こうした前提で言えば、すべての規律をなし崩しにして、人の生はすべて等しく例外なく尊いと言うのは、実はすべての人の生を馬鹿にしている。だとすれば、ぼくらはぼくら自身の「脱ぎ着」の価値を正しく見積もらなければならない。しかしそのための決まりは定かでない。とはいえからきし無作法なのではなくて、まるで記述が進んでいないのでもない。現代小説の規則が、これから書かれるべき小説に求めているものは、あまりにも多岐にわたり、但し書きと諸注意の山に埋もれていて、後から新しくやって来る人たちの背に重たい荷物を乗せ続けている。それはかまわないし、背負って行くつもりだし、他に手立てもなさそうなのだが、しかしその法律は誰の・何のためにあるのか。これはぼくの、わりに長く抱えている疑問のひとつだ。
根も葉もない推定なのだが、大きな潮流として、近代の始まりに成立した諸文化は、長年かけて培われてきた規制と細則に雁字搦めになっていて、もはや誰にも守り切れないし、守り切るべきでもないのだが、明示的な廃案宣言はいつだって出されないせいで、なんかすごいだらだらした感じになっている。もし、20世紀の初頭から半ばにかけて、前時代の規範がまだ生き残っていた頃には有効だった、然々の掟破りや悪ふざけが、21世紀に生き延びたわりと古い芸術様式のなかではもう、芸術的達成としてみなされなくなっているのだとしたら。また同時に、或る芸術作法の遵守や徹底をするにしても、修行めいた厳しい戒律に身を晒したところで、見世物にはなりこそすれ、誰の心を打つこともなくなっているのだとしたら。そのときぼくらは、娯楽文化消費の、いったい何を楽しんでいるのか。ここでは答えを出さない。打ち明ければ、ぼく自身まだ絞り込み切れていない。



「種」=『マイケル・K』にとっての何か

話を小説に戻す。「マイケル・Kは口唇決裂だった。」というぎょっとする一文から『マイケル・K』は書き始められる。1983年に出版されて、ブッカー賞を受賞した。The Man Booker(本をものする者たち)の賞で、イギリス連邦アイルランド共和国およびジンバブエに国籍を置く著者が英語で執筆した作品に与えられる。『マイケル・K』は3部立てになっていて、第1部の粗筋は、wikipediaにこの項目を書いた人がうまくまとめている。以下のような物語が、動作や心情、出来事の簡潔な描写によって、手際よくまとめられたひとつひとつの挿話を次々に積み重ねることで、時間の流れや空間の拡がりをぐいぐい引っぱっていくやり方で書き進められていく。

アパルトヘイト時代の南アフリカを舞台に、口唇裂を持つ庭師のマイケルが、内戦で疲弊した都市ケープタウンから、母親が少女期を過ごした思い出の地、プリンスアルバートまで、病んだ母親を手作りの車椅子に乗せて困難な旅を続ける姿を描く。途中、母親は死に、その骨灰をもってマイケルは旅を続け、たどり着いた農場で、あらゆる束縛からのがれ、たったひとりカボチャを育てて生きようとする。


第2部は、語り手が収容所勤務医師らしい男に代わる。マイケル・Kが、カボチャ畑にいたところを捕縛されて、彼のもとへやって来る。「私」は彼とどうにかして心を通わせようとさまざまな手立てを講じるが、うまくいかない。口をつぐみ、からだを動かさず、何も食べようとしない「マイケル・K」に「私」は、熱っぽく、
「なぜここへ来たのか?」
「いままで何をしていたのか?」
「私の言うことを聞いてくれ」
「頼むから答えてくれ」
「食事をとってくれ」
問いかけ続ける。マイケルはけっきょく逃げ出してしまう。
第3部は本文からの引用が物語の「感じ」を掴むのにはわかりやすい。「マイケル・K」と、この小説が書かれていくあいだずっと彼を見守り続けていた語り手が、目の前に流れていく景色や出来事を眺めながら、これまでのことを振り返って、さまざまなことを思う。

思い返してみると、俺がやった間違いは十分な種子を持っていなかったことだ、Kはそう思った。ポケットごとに違った種子の包みを入れておけばよかった。カボチャの種子、インゲンの種子、豆、人参の種子、ビートの種子、玉葱の種子、トマトの種子、ホウレンソウの種子。靴のなかにも、コートの裏地にも種子を入れておけばよかった、道中追い剥ぎに遭うのに備えて。それから、俺がやった間違いは種子を全部いっしょに一箇所に蒔いてしまったことだ。一時に一粒だけ蒔くべきだった。それも何マイルも続くフェルトに散らばる、手の平ほどの土地に。それから地図を作っていつも肌身離さず持ち歩き、毎夜、水遣りにまわることができるようにする。なぜなら、もしも田舎で発見したことがあったとしたら、何をするにもたっぷりと時間があるということだったのだから。
(ようするに、それがモラルなのか? Kは思った。すべてに通じるモラル、つまり何をするにも時間はたっぷりあるということが? モラルというのはそんなふうに、ひとりでに、成り行きで、まったく予期せぬときにやってくるものなのか?)(くぼたのぞみ訳)

ここでは示唆しかしないけど


ぼくはいま、文学史上の意伝子(meme)の伝達と継承を自明のものとして話をしている。しかもそれを、師弟関係や交友関係のようなわりと閉じたコミュニティのなかだけで自発的に行われるだけではなくて、伝染病や流行の拡散のように、形状や性質を少しずつ変化させながら、長い時間をかけて、かなり広い範囲で、ゆっくりと浸透していくこともあるものだと考えている。
その前提に立って引用を読むと、これは、食べものの種を蒔き・育てるやり方に間違いがあったことを悔やんでいる場面だ。「マイケル・K」、語り手、『マイケル・K』、J・M・クッツェーそれぞれが悔やんでいる。それではこの小説の言う「種」とは何か。「育てまちがい」とは何か。おそらくこの一節で、『マイケル・K』は、「種」を何かの暗喩として用いている。それが「文学」のなのか「愛」のなのか「生命」のなのか「人類」のなのか「かぼちゃ」のなのか『マイケル・K』のなのかはよくわからないし、おそらくどれも当てはめようとすれば当てはまるのだろうが、そういう、いろいろの可能性が折り重なった「種」を蒔き損じたといって、この小説は悔やむ。そしてまた、「それがモラルなのか?」と、ちいさな悟りに達する。そのことにぼくは深く驚いた。繰り返すが、この小説は1983年に世に出ているのだ。遅くとも、いまから30年前に書かれたのだ。
ここまで辿りついて、ぼくの話の着地点は明らかになりつつあると思う。ここまで補助線を引けば、『slow man』を読んだとき、『summertime』を読んだとき、彼らの小説たちが意図して/意図せず、何を指し示しているのか、かなりはっきりと把握できるはずだ。そのためにぼくはここで、クッツェーの小説を出汁に、「属性」の脱ぎ着と、モラルとマナーの書き方/書かれ方について話した。倫理の健全な要約を望んだ。他のことを語ることは控え、クッツェーが突き止めたらしい「モラル」とは何かを問おうとした。そのときぼくは、彼自身の著作履歴や、出身国の歴史、南アフリカ文学の系譜や、英語小説界のトレンド、80年代の世界文学市場の動向を押さえることなど、ほとんどを無視した。クッツェーの小説たちは、ここらへんの話題を知り、考え、確かめるのにうってつけの教材だと見なして。
しかしそれと引き換えに、市場や機械が作品を速やかに正しく評価できる時代を夢想できた。世界文学史上における大きな潮流の変遷を示唆できた。詳細は煮詰められていない。だからこれからぼくは、今年の国際文学市場がどうなっていくかをきちんと調べておくべきだ。そのためにも、たとえば、ものすごく卑近な話になるが、ぼくは多少とも使える英語力を身につけておいたほうがいい。いまはまだ力不足だ。
それでも最後に問いたい。ぼくがJ・M・クッツェーの小説たちの「属性」を一枚ずつ脱がせたり着せたりしていったとき、『マイケル・K』の言うモラルとは何だったのか。より正しく言えば、ぼくにとって、現代の娯楽文化の倫理はさしあたって何でありうるのか。n個ある隣接領域との接続経路を開くか閉じるかして、m個の「属性」を脱がせたり着せたりできる娯楽コンテンツを消費するとき、導き出せる答えの数は少なくともn×m個ある。ぼくが導いたのはそのひとつだ。この問いが誰しもの心に引っかかるとは必ずしも思わない。とはいえ少なくともぼくはこう予感している。近代日本の生んだかなり耐久力のある芸術様式が、現代日本にとどまらず、世界文学市場で効力を持つためには、いま、改変されつつある娯楽文化の倫理規則は、やはり無事ではいられない。ぼくらの上の世代が味わい、楽しんできた自由や、贅沢や、多様さを、ぼくらがこのままずっと維持できるとは思えないのだ。