で?っていう備忘録

再開です。

健全な消費に有害な心構え

書けるところまで書きます。

 

いっとき、「フィクションのなかで”ふつう”を書くことがいかに難しいことで、それに挑むひとは目立たないがすごいことをしているのか」を強く言う文を、よく目にしました。この褒め方は、簡単な社会認識に由来していると思われがちですし、論者のほうも雰囲気で言ってるなという論はたしかにありました。たとえば、いいやつ―ダメなやつ―どちらでもないやつ。浮きこぼれ―ふつう―落ちこぼれ。上流―中流―下流。白―グレー―黒、とかね。

 

小学生みたいな二元論よりはマシですけど、「黒に近いグレー」「ふつうじゃない」「自分は下流じゃないし中流だろう」とかいう、お気楽な価値判断が楽にくだせてしまう。だからかなり長いあいだ、僕はこの3層化がきらいでした。使いやすいんですよね。善悪・是非・美醜しかないセカイを妄想して頭が煮詰まっているときに、その2択自体を蹴飛ばせる、「ではない選択肢」がもらえる発想法だし。学生時代に演習でもつかった覚えがあります。

 

んで、フィクションを読み耽っていくうちに敏感になっていく人って、絵描きが「赤」を何通りにも見分けられるように、「良い」を8個くらいの輪切りにしたり、「ダサい」をみじん切りにして最後に添えたり、「浮きこぼれ」の皮だけ焼いたりとかが、本を読むときの頭のなかでできるようになるわけですが、これを書くとなると意外にむずかしい。自然体は意識過剰の峠を越えた先にしかないし、平凡さは無加工・無文脈だと美味しくないし、無造作が褒められるのは物好きの間でばかり。

なのでそういう書きものは、たいてい、ポイントになる味付けを決めて、そこだけ一点豪華主義な感じにして作られることが多い感触があります。萌えは定番だし、不穏も、不安も、不幸も、不正も、不純も、まぁなんか「「ふつうじゃない」じゃない」っていう構造が透けて見えればとりあえず様にはなるかなと。そういう算段でもってエッセイは書かれ、エントリは公開され、トピックは立てられるわけであります。

 

でも、そういったありきたいの味付けって、薄化粧にも「型」があるのと同じで、回数を重ねていくとパターン化しちゃって驚きがなくなりますよね。それに、ランダム化しすぎちゃっても、付き合いきれなくなっちゃう。

そのあたりの調節を、フィクションとして、エンターテインメントとして、商品として、きっちり成功させた作品を、このあいだ見つけました。市場全体とはいえずとも、少なくともここ数年の、よく目にした地域では、とても新しいし、きれいだと思いました。

 

ただ、その整い方を、ぼくは色眼鏡なしにみることができない。歪ですが、これが好きな自分はなにかに嘘をついているのではないか、と疑う気持ちもあります。でなくてもその場の空気に呑まれているのではないか。消費に情がこもっているのではないか。そのように感じられてなりません。

 

これは有害な心構えです。考えなくてもいいことまで考えてしまっている。

 

なんだろうなぁ。3層化にうんざりして、ちゃんと考える/分類するということをやりたいという気分が、生活の諸相に顔を出してくる。事物Aから受ける印象aは、自/他のどちらに何%くらいずつ由来していて、そのうちどれだけが混合状態にあり、なかでもいくつくらいが不純で、誠実で、適切なものなのか、よく分からなくなっています。

「ふつう」はそんな繊細な感情の解剖を言葉でするなんて愚かですが、使用頻度の多い欲望の成分分析は、生涯のうちどこかで、できれば10代から20代のうちに済ませておいたほうが、鈍感とうか頑強というか堅牢な気分を保守できそうな気もしますので、まぁもうちょっと続けるんだろうなぁ。

 

本の話までたどりつけず。