で?っていう備忘録

再開です。

『風流夢譚』が電子書籍化されて思ったこと

初めての人が読むといい下知識。「嶋中事件」について


『風流夢譚』は皇族をキャラ化して悪ノリした佳作のスプラッタコメディ。
いま読み返すと、拍子抜けするほどフォーマルだし、主題への敬意と遠慮があるし、何より技巧がある。
商品と雑談を比べるのは無粋だが、いまや、2ちゃんねるで皇族周りを観察するスレッドのほうが、ずっと不謹慎で、底の浅い、軽はずみな悪ふざけの場になっている。
本作が採用している、「逃げ」としての夢オチ、個人の中傷ではなく「皇族キャラ」をネタ化する、皇室の儀礼を根こそぎ否定するのではなく、児戯めいた誇張として再演してみせる、などの技巧は「言い逃げ」が出来ない「場」で物を言う時の戦略だ。
テレビ型の喜劇を見慣れた身からすると、『常識的文学論』(大岡昇平)が同時代に書いていたように、そこまで大騒ぎするほどのことではなくて「ハハハ」と失笑して流すのが「良識的な大人」の振る舞いになる(当時はそうではなかったんだと思う)。


で、今回の電子書籍化でぼくが分かったのは、

・『中央公論』という雑誌が60年代に集めていた注目と、担っていた社会的役割がすっかり変わってしまった
・60年代(第一次安保闘争直後)の左翼/右翼の思想対立や、時代の空気が、ぼく(=88年生まれ)にはもうよく分からない
・web上で本文が全文公開されていても、導線やきっかけがないと、物好きの他にはあまり読まれない
Twitterのネタクラスタに同じ分量のものが書けるかというと、どうだろう


憶測でしか言えないが、

深沢七郎は、当時から「真面目ぶった顔で悪ふざけ」をしていたのだが、世間はそれを「真面目な芸術活動」だと読みちがえてきたのではないか
・(漫画やアニメをよく観ている後輩が『楢山節考』を読んで、裏読みも深読みもせずに、「現実離れした風習に苦しむ現実離れした人物たちが素頓狂な世界で生きる姿に笑っちゃった」ようで、ギャグ漫画を読んだあとのように、面白かった箇所を教えてくれた)
・上流(=版元)が水を塞き止めているから電子書籍化は進まないが、時期さえくればじょぼじょぼになる、と思っていたが、そうではない。
・上流にいる人は、余力があまりないなかで、「お金をもらって恥ずかしくないもの」を作りたいので、下で待っている人から見たら、どうしても作業進行が遅いような気がしてしまう。
・「宣伝」と「流通」をやる手間と、「整形」して「見栄え」をよくする手間なら、後者にお金を払いたいし、版元もそのつもりでいるが、実は前者のほうが足りてない。


自分の仕事周りに絡めて邪推すると、

深沢七郎を読み返して学ぶべきは、たぶん、題材の奇抜さではなくて(2chの過去ログ漁るほうがいい)、文章技巧の面、たとえば一文いちぶんを軋ませてフォーマルな書き方を「外す」やり方。
・「流通」の障壁は、予算や規模ではないのかもしれない。やっぱり端末を別個に買ってきれいな仕上がりの製品をじっくり楽しみたい、というのはまだ贅沢。
・贅沢勝負なら、すでに紙の本はこの上なく贅沢向けに作られているので、電子書籍の頑張りでは、物好きでないお客さんは見向きもしてくれない。
・日本で現状もっとも字を読む層(10代男子・20代女子)は、いまの無料で書いて・読む習慣に飽きておらず、もっと贅沢したいともあまり思っていない。


といったところになるでしょうか。
Google+へ投下するつもりでしたが、長くなったのでこちらで公開します。
以下、『風流夢譚』の本文。

無料本文

330円できれいに装丁されたやつ