で?っていう備忘録

再開です。

文化を計測するのはなぜか

1.『文化的景観を評価する――世界遺産 富山合掌造り集落の事』を読み終えた。

 

 

 CVM(仮想評価法)という手法を文化遺産に適応して、文化財の「お金には置き換えられない価値」を、金銭換算すると何円から何円の幅になるかを定量評価した論文。

CVMは、主には環境経済学でつかわれていた手法で、ある事業をするときのコストとメリットの兼ね合いを分析する。文化財への適応はこの著書が国内で初めての例だという。海外にも12例しかない、と記されている。「最近はでも増えて来てるんでしょ」と思いきや、2012年11月に発売されたものだったりして(2005年刊の改訂再版だった。7年で増えてるといいな)。日本ではまだ全然流行っていないやり方らしい。一応は営利企業たる弊社もまぁあれだし、宝島社の入念なマーケティングや怒涛の大量配本が出版業界内で賛否両論かまびすしいのを見ると、娯楽商品を制作・流通・販売する部門の人にも参考になりそうと思って書評を。再開の口実が欲しくてですね。


2.ぷらいすれす。

クラウドクラスターを愛する方法

クラウドクラスターを愛する方法

 

「お金には換えられない価値」を「お金で勘定する」とはどういうことか。美術品を、海外展覧会へ出すときに、保険をかけることを想像するとわかりやすい。美術品自体の価値は計り知れないが、かといって法外な保険金は掛けられない。万が一のリスクを考えて、どれくらいの損失を覚悟すればいいかを見定めたい。そういう時は、その美術品を持っている人が、現にどれだけのメリットを手にしていて、将来も手にできそうかを勘定することになる。その美術品を見に来る人が年に何人いて、彼らには入場料を何円もらっているが、美術品は機嫌を損ねやすいから、しばしば食べものや、化粧品、服などを買ってあげなければいけないので、結果どれだけのお金が残るか、なんてことを調べる。

またその美術品について、(1)いてくれるだけで嬉しいのか(存在価値)、(2)何かに役立つのか(利用価値)、(3)次世代へ引き継いでいけるのか(贈与価値)などなど、まぁ思いつくかぎりの「良さ」を挙げていく。その積み重ねで、持ち主はその美術品をどれだけ大切にしていて、他の人にもどれくらい価値があるのかを導き出す。

「愛」や「美しさ」は目に見えず、人それぞれだが、「愛していることを示すため」や「美しくなるため」に費やされた努力がどれだけの大きさだったか。これなら分かる。食べものや化粧品、服の値段などから「絞り込める」。たしかに限界はあって、この発想では「実際に愛しているとき、美しくあるときに、人が感じる心の揺れ」には触れられないし、文化財自体が持つ史的価値の説明は、従来型の文化史が行ってきたような定性分析を別にすることになる。

個人の付き合いのときは、「だいたい何円相当くらい愛しているか」かは、勘や経験で決まっていくが、規模が大きい財産となるとそうはいかない。その精度をなるべく細かくしたい。そこで本書ではCVMが採用された。


3.不景気と人手不足

 

烈しい生と美しい死を

烈しい生と美しい死を

 

これには2つ理由がある。まず、本書で検討されている世界遺産「富山合掌造り集落」は高齢化と過疎化が進む村で、寒冬もあって生活もなかなか大変、遺産である藁葺き屋根の家も、遺産指定される前は地域のみなさんでボランティアをしてメンテナンスしていたらしい。つまり「およそ人類にかけがえのない財産」が、「ごく小さい村の、ほそぼそしたコミュニティ」でなんとか守られている状況があった。

そのうえ、「財政状況の悪化の中、縮小しつつあるパイをめぐって、それぞれの公共事業の必要性を主張する必要が出てきた」(本書第7章から)。しかしこの本が言うには、それまでの日本の国や地方自治体が行う文化政策は、担当者の暗黙知や、その場の裁量などで行われることがほとんどだったという。だから、本書が行ったような文化財のコスト/メリットを定量化する試みは、「必要性を疑われている事業の妥当性を証明するための一つの便法になりつつある」。

最近のこの国はまじで文化的生産物への風当たりが強くなっていて、教養費や遊興費の落ち込みが直撃しているのが現代小説等々の敷居の高い文化だったりするのもあって、本書が国政について指摘し、苦言を呈しているいちいちの記述は、たぶん常日頃から一つの文化潮流のゴールキーパーを担っていて、不採算部門で、さすがにマズいというんで攻める姿勢を出そうとしている各種の取り組みをしている方々にもきっと得るところがあるのではないかと感じた。ある文化財の価値を最大限に評価してほしいときに、今後あるいは、優れた批評や後続作品の派生だけでは証拠不十分だとみなされる悲しい状況が訪れるかもしれない。それに備えて、相手国の言葉で理論武装しておくのは無益じゃない。言ってみれば、文学の言葉では、文学を擁護できなくなる日が来るんじゃないか、という不安が在学中からずっとあって、だからこの著作のことも、単純に共感する本としても読めてしまうくらいだった。個々の分析の厳密さに、僕はどこも大変なんだなぁと思った。英語圏で天下をとったIT企業や経営者たちが、市政やジャーナリズムへも関心を示していて、メセナの主体が変わりつつあるんだなぁと感じる昨今なのもあって。


4.文化財への支払い意志額を計算するということ

ポップカルチャーA to Z

ポップカルチャーA to Z

  • 作者: 山田五郎,キムハストレイター,デイビッドハーシュコヴィッツ,Kim Hastreiter,David Hershkovits,細谷由依子
  • 出版社/メーカー: グラフィック社
  • 発売日: 2000/07
  • メディア: 単行本
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さて肝心のところ。本書では、次のような手法の実施が報告されている。ある文化財に関心を持っている人に、その文化財の保護や修繕のために費用が足りていないことや、その文化財の史的価値などを説明したうえで、WTP(=willing to pay:何円までなら払えるか)を2段階に分けて問うていく。「何円なら払えますか?」「はい/いいえ」。「はい/いいえと答えた方に質問です。では、先ほどの金額±何円までなら許せますか?」そして集まった答えを収集し、回答者の答え方や属性によってモデル分類。何人がどのモデルに当てはまったかを横目で睨みながら、付値関数を推定していき、出てきた答えを検定する。途中で無限積分を使うくだりがあって、そこだけまだよく分かっていないのだけども、大枠はかえってシンプル。要は、みんなにアンケートを配って、集まった答えを読み込んでいって、一定条件付きでの「みんなの気持ち」を割り出そうとした試験。大きな会社の市場調査や新規事業計画のときにはしょっちゅうやっているだろうが、しかし現実に完遂するには相当量の手間・暇が要るという。

この地道な手続で本書は、「伝統的な日本家屋が今もこの国のどこか山奥に残っている景色」は何千億円くらいの価値があって、その景観を維持・管理していくためなら、観光客たちは数千何百円から何千数百円までなら払えるかをきっちり算出している。その手順が詳細に――アンケート調査の依頼状から、回答者の年収や文化教養の高さ、文化遺産への気持ち、さらには回答者から寄せられた声援まで記述してある。そこが勉強になった。存在論的思索では速やかに考慮からはずされがちな、固有名に紐づく諸々の命題を悉皆検討しようという姿勢が僕の性に合っていた。

並行して文化経済学の先行文献を何冊か読んだのだけど、選書が悪かったのか、どれも不要な概念や用語を濫造している気がしてならなくて、コレジャナイ感がすさまじかった。議論の深さもまじでそんなんで現代文学ぷぎゃーしてんじゃねーよふざけんな経済学めという怨念を抱かせるレベルのものだったので(教科書とか一般書を選んだのがいけなかった)、だから本書は役に立った。学部生レベルの学術調査の手法さえ僕は学んでおらず、当時は主に現代日本文学史を読み潰して歩きながら、書き言葉のレトリックに習熟する日々を送っていたから、弱点を補えた感じでもあった。

 

5.あと愚痴

 

燃えつきた地図 (新潮文庫)

燃えつきた地図 (新潮文庫)

 

一般に文学系男女が就職活動前後にはまる、株式市場あれこれとか金融政策ABCとか政府財政トリビアみたいな方面のが肌に合わなくて(我慢してやってたけど僕には窮屈だった。でも『ノーベル経済学賞の40年』は学説史の良いまとめとしておすすめです)、辺境をうろうろしていたらここに辿り着いた。で、面白く読んだ。僕は手法とデータが笑えるほど明示されている書籍が大好きなのだ。

私事情で、僕はいまだに娯楽文化一般への不信感が内面の深いところに巣食っていて、その呪縛を解毒するために文化消費をするみたいな自縄自縛の暮らし方を選ぶつもりでいて、実際に送っていたのだけど、この本の精緻な記述と、あと最終章に書かれた熱意によって、だいぶ気負いが抜けた感じがする。ここまで根を詰めてもいいのだ。

ではこの2年他に何をしていたかというと、計量文体学を学び始め、ウェブ登場以前にウェブ的想像力を先取りしていた雑誌たちについて調べ(『ポップ・カルチャーAtoZ』はすべての遅れてきたポストモダニストが読むべき)、全米批評家協会賞を読みつぶしながら(アップダイクが老いていた)、ノンフィクション文学史を追ううちに猪瀬直樹の真価が分か(ったその三ヶ月後くらいに都知事になってげんなりした)り、日系ブラジル移民文学とか明治の地方都市の文化とかを漁っているうちに行動生態学が面白くなってきて、そんなこんなで平安文学と江戸文学の周辺文献を大量に読みまくっていた……のか。書きだすとひどいな。体系的でなく、一貫性もない。あと新古典派フィクションズとねとぽよと、あと自作の小説もか。

大まかな傾向として、あるひとつの文化コミュニティがどのように生まれ、老いていくかについて、諸学問の学説から類推して体感しようとしていたと要約できるんだろう。かつて僕が属していた文化圏は確実に死ぬので(現代文学のことではなくて、また別のね)、そのことを過不足なく受けとめるための、心の準備をしていたというのが正直なところか。いずれは文章にして残すつもりなんですが、そのための準備に十年くらいかかりそうだなと思ったのが20歳の時で、僕のなかではその頃から一貫してひとつのことをやっているつもりではあったのだけど、語彙に不自由して語法に不器用だったせいで多くの方に誤解と心配をさせてしまった。

というか思うんだが、社内研修が挨拶の仕方と名刺の渡し方だけで後は戦地で死んで来いみたいな小さい会社に入ったんで、自前でサラリーマンの基礎を鍛えようとしていたはずが、けっきょく調べものに凝り性な気質が押さえられなくなって、進学しようと勉強し直そうとしてるのだから遠回りだわ……ライフカードの切り方下手すぎるだろ……。