で?っていう備忘録

再開です。

保坂和志と舞城王太郎と空気系ライトノベルのこと1


保坂和志さんがいま各所で一度にいくつも連載している文章を読んでいると、ぼくは、ものすごく強い「不安」と「息苦しさ」と「自我」とを感じる。
それは死ぬことの不安だったり、からだが衰えていくことの息苦しさだったり、「悩むな、考えろ」というちょっとした脅迫めいた自我の膨張だったりだと思って読んでいる。


保坂和志さんがこれまで書いてきた著作についてはこんな言い方ができると思う。凝った言い回しをひたすらに避ける。一文あたりの「できごと」の数を増やす。時間経過を端折る。(あくまでもミステリやSFやホラーと比べればだけど)これといった大事件も起こらない日常を題材に選ぶ。性交も殺人も空想には手を出さない。あくまでふだんの暮らしのなかで交わされる人々の会話や、気持ちの細かい揺れ動き、小さくて深い断絶をこそ描く。極私的に見れば巨大で、人類規模でみればゴミのような事件――猫の死や、ローズの引退や、海へ行くこと――に徹底的にこだわる。穏やかに流れていく時間への慈しみを断固として守る。そのためにはいわゆる「社会」と呼ばれる「覚えなくていいこと・どうでもいいこと・くだらないこと」との交渉を決裂されることをもまったく厭わない。


つまり、ある一部のあまりものを考えずに小説を読んだり書いたりする人たちが無意識に前提として共有してしまっている、小説の「型」とか「作法」とかというやつを、片っぱしから「外した」ような小説を書いてきた、ということだと思う。だから彼の小説は一見「ふつう」にみえる。


とはいえたとえば高橋源一郎さんとは違って、それは明確な「ボケ」(正解があるのを知っててわざと違うことを言うこと)の形をとることはないし、きちんとした「フリ」(あるネタで笑うために芸人と客が共有するべき最低限の知識)を必要としないし、きつい「ツッコミ」(世の中や、個人の発言や、制度に向かって、面と向かって間違いを言い当てること)がなければ成立しない「文芸」ではない。(逆にいえば高橋源一郎さんの小説はある時期までこの「ボケ」と「フリ」と「ツッコミ」に溢れ過ぎていて「常連さん」でないとさっぱり理解できなかった)。


世間には「書きたい!」という気持ちを大事にする夏目漱石村上春樹古川日出男のような人と、「書きたくない!」を大事にする森鴎外高橋源一郎中原昌也のような書き手がいる。という前提に立っていうなら、保坂和志さんは徹底して「書かない」を大事にしてきた作家だ。
それはたとえば志賀直哉小島信夫やサミュエル・ベケットがこれまで大切にしてきた価値観で、「型」や「作法」を外しに外す彼らの小説は、なんといえばいいか、「形なし」の面白さがあるし、文芸界隈のゴシップや雑学に詳しくない素人でもすんなり読めてしまう。


小説論を書いたり、将棋(=文学)について思考したり、ハイデガーを読んで心身を鍛えたりすることで、保坂和志さんは、こういう「かたなし」スタンスをデビュー当時から強く肯定していた。いくつかのエッセイや著作の、せめて題名だけでも眺めてもらえればそのことを察せられる。たとえば「世界を肯定するための哲学」。


保坂和志ファンは保坂和志さんの作風がそんな感じなのをちゃんとわかってて、「ただ読めばいい」という保坂和志さんの(文脈を踏まえないとたぶん確実に誤読されてしまう、でも文脈を踏まえれば確実に誰かの命を救えるくらい本質を突いた)かなりの暴言も「保坂さんはああいう作風の人だから」なんて思って読んできた。だから今季に各文芸誌で連載されている著作のこともそんな風に読まれているんだろうたぶん。世間では。


いちおう予防線を張っておくと逆もまた是で、保坂和志さんは志賀直哉小島信夫やサミュエル・ベケットらが知ってか知らずか武器にしていた「型なし」という「型」を武器にこれまで仕事をしてきた方だから、ここまでの記述をすべてぺろっとひっくり返して「保坂和志はこれまで「型」にきわめて従順な作家であった」なんて結論も出せる。けど言ってることが違うだけでやってる操作は同じだ。ここではしない。


で、ちょっと調子が出てきたから言葉づかいがここから少しカジュアルになっていくんだけれども、これからぼくはぼくが抽出したこの保坂和志観を下敷きにして、保坂和志さんの近著、舞城王太郎さんのこと、それから空気系ライトノベルと類される一連の作品群について書くつもりだけど、飽きたらそこでやめるので、あまり期待せずに読んでください。


『未明の闘争』には小島信夫深沢七郎、最近では岡田利規も採用していたような「てにをは」の狂いが書かれている。『抱擁家族』(小島信夫)で主人公が死んだはずの妻とあろうことか「対話」をしてしまったように、『未明の闘争』冒頭では主人公が死んだはずの友人と同じ世界を生きてしまっている(後々夢だということがわかるのだけれど)。



(今回は途中で迷子にならないように引用なしでいきますすみません)。



俗っぽい言い方をすればこれは、先行作家からの手法引用+書き手本人の関心領域+書き手が用いる言語の特性=「現在」(その書き手にとっての)が反映された結果だといえるんだろう。言い換えれば、ちょっと書いてみたいことがあったけど手持ちの言葉はつかいづらくて役に立たないから、古い手法を借りてきた、ということだ。これ自体はまぁ芸術界隈では日夜当たり前のように行われていることだから別に珍しいことではないとぼくは思った。正直、周りが言うほどびっくりしてなかった。


そんなことより驚いたのは次の3点だ。



・「狂い」を「うっかり」にではなく「わざと・あえて」実現しようとしていること
舞城王太郎の文体との近似
保坂和志を読みながら「けいおん!」「生徒会の一存」がライトノベル界に書かれてしまった不気味さを感じた自分の感性


今日は一点目について。『カフカ式練習張』や『未明の闘争』に書かれているのは「てにをは」や物語構造の「狂い」だ。支離滅裂な擬音の羅列(ダダ)や論理帰結の脱臼(『待ち合わせ』)や常軌を逸した想像力の発揮と同じ「狂い」だ。「ずれ」だと言ってもいい。そして小説を読むときのマナーとして、こういう「狂い」を読み手は、書き手の意図や策略をいったん「さておき」して、ひとまずすべてを受け入れるべきだとされている。「どうしてこうなったかというと、こうなったからだ」という無前提の受容。もちろん読んでて疑問や不快を感じるなということではなくて、「彼には彼なりのやり方があるのよ」といった風に、その小説にはその小説なりの言葉づかいと語り口と考え方があるのだ、と、ひとまずは受け入れること。だから『未明の闘争』冒頭の「ずれ」や『友情』(武者小路実篤)の一般文法から「ずれ」まくった記法については、これを認めるべし、というのが、まぁ誠実な読みだとされている。


しかしところでこの「小説」という言葉が指し示す範囲をちょっと広げてみるとどうなるか。『未明の闘争』単体ではなく『保坂和志』という「小説」全体の或る一章だと思って読むとどうなるか。これまで徹底的に「ふつう」のことを「ふつう」に肯定することに全力を注いできた書き手がここへ来て「てにをは」を「うっかり」間違えてしまうことなんて、まずあり得ないのだと考えるとどうなるか。


急いで付け加えると、ぼくは小島信夫が初期〜中期にかけて発表した小説に見られる「てにをは」の狂いだったり主語が文頭で宙ぶらりんになってしまっていたりを英語文法と日本語文法の狭間で言葉を捕まえようとしたが故の「軋み」だと思っている。


深沢七郎の『楢山節考』や『風流夢譚』にも見られるような「てにをは」や文法の「ずれ」は、肉声で人に話すときの文法と、文字を紙に書くときの文法との間の「乖離」が元で生まれたのだと思っている。


つまり両者はそれぞれの言語環境の渦中で奮闘していた結果「うっかり」「てにをは」や文法が崩れてしまっていたのだと思っている。


で、保坂和志さんの場合はどうか。
というわけでちょっ考えてみて、ぼくは怖くなった。
ここまでに書かれた言葉でなるべく平たく俗っぽく言うなら、
ぼくはこんなふうに思えたのだ。

どうして「ふつう」の小説が、わざわざ「狂」わなくちゃならないのか。「現在」は「ふつう」の小説に何を強いているのか。ひょっとして「現在」では「狂い」のほうが「ふつう」なんじゃないのか。


ここでいう「現在」というのは、保坂和志さんの小説の「現在」でもある。
彼が小説の世界で切り開いた地平の先へ進もうとしている「現在」の書き手たち(舞城王太郎とか、柴崎友香とか、丹下健太とか)のことでもある。
空気系ライトノベルと呼ばれる「宇宙人も異星人も超能力者も」物語に登場せず、十代後半の男女が喜びそうな「ふつう」の物語をつるつると書き流している「現在」のライトノベルのことでもある。
新海誠桜坂洋村上春樹的世界観から不完全に「なにか」を受けとったように、保坂和志的世界観や「ぼのぼの」の子孫として「あずまんが大王」や「よつばと!」や「けいおん!」が生み出されているんじゃないか、という憶測としての「現在」でもある。


(今日はとりあえずここまで。続きはまたいつかどこかで。今日は文脈共有のための地ならし的前説をちょっと省略しました。読みづらくてすみません。)