で?っていう備忘録

再開です。

保坂和志と舞城王太郎と空気系ライトノベルのこと2の下書き

今日は二点目。保坂和志氏の近著と舞城王太郎氏の近著に文体の類似が見られる点について。


舞城王太郎さんがこれまで書いてきた小説を読んでいると、ぼくは、ものすごく強い「不安」と「息苦しさ」と「自我」とを感じる。
それは死ぬことの不安だったり、からだが衰えていくことの息苦しさだったり、「悩むな、考えろ」というちょっとした脅迫めいた自我の膨張だったりだと思って読んでいる。

舞城王太郎さんがこれまで書いてきた著作についてはこんな言い方ができると思う。凝った言い回しをひたすらに「過剰に」避ける。一文あたりの「できごと」の数を「過剰に」増やす。時間経過を「過剰に」端折る。(あくまでもミステリやSFやホラーと比べればだけど)これといった大事件も起こらない日常「だけ」を題材にはせず、性交や殺人や空想は頻出する物語世界のなかで、あくまでふだんの暮らしのなかで交わされる人々の会話や、気持ちの細かい揺れ動き、小さくて深い断絶をこそ描く。極私的に見れば巨大で、人類規模でみればゴミのような事件――暗病院終了の死や、中学生の息子の気持ちや、迷子の娘を救うこと――に徹底的にこだわる。穏やかに流れていく時間への慈しみを断固として守る。そのためにはいわゆる「社会」と呼ばれる「覚えなくていいこと・どうでもいいこと・くだらないこと」と徹底的に戦うことをもまったく厭わない。

つまり、ある一部のあまりものを考えずに小説を読んだり書いたりする人たちが無意識に前提として共有してしまっている、小説の「型」とか「作法」とかというやつを、片っぱしから「過剰装備した」ような小説を書いてきた、ということだと思う。だから彼の小説は一見「異常」にみえる。



「ここでは両者の近著を引用して比較すること」



たぶんきっと、わざと模倣したのではなくて、うっかり近似してしまったんだろう。
保坂和志は自身が日本の小説界で切り開いた可能性を展開し続けていた。たとえばそれは既存の「物語上のお約束」に徹底的に抗うことだ。だから小説には特筆するべき「やま」も「おち」も「いみ」もない。もちろん皆無ではなくて(そんなことは不可能だ)、作中人物の身の丈に合ったジャストサイズの物語とでもいえばいいか、ともかく漫画評論用語でいう「超展開(笑)」は起こらない。そしてそうであるが故に、「さして書くまでもないありふれた出来事」だと一般に考えられているあれこれが、目が覚めるほど鮮明な場面として読み手の目の前に再生される。



(『カンバセイションピース』に書かれる横浜ベイスターズ敗戦を悔やむくだりを引用すること)



物語が進んでいくなかで、保坂和志の小説が常に選択するのは、小説作法に従うよりも「いま・ここ」で暮らしている人々の声や姿を優先して言葉にすることだ。だから小説は時に断定的で一面的な記述に満ち溢れる。小説は「偏りのない中立な書き方」というのが嘘以外の何者でもないことを熟知しているから、描かれる世界は狭く、小さい。悪く言えば、意図的な偏りと見落としによって仮構された世界だ。


舞城王太郎保坂和志が日本の小説界で切り開いた可能性の延長線上を進んでいる。
(以下では次のことを書く。

・『九十九十九』の主人公「九十九十九」が「嘘にまみれた世界だとわかっていても家族とのささやかな日常を肯定したい」というようなことを言うくだりを引用して、保坂和志的世界観と重ね合わせて読む。
・『ディスコ探偵水曜日』の気に入った箇所を褒める。
・たとえば『ソマリア、サッチ、ア、スイートハート』に書かれる突発的殺人と性交と残虐な暴力と生死の境界線の融解が、まるで「さして書くまでもないありふれた出来事」のように、日常と地続きに書かれていることを示す。
・『ピコーン!』の詰め込み過ぎな文体を、「文中に「出来事」をたっぷり詰め込む」を過剰に大量に実践した結果だとして、update版保坂和志だと言う。
・「異常さ」を作中に導入できない保坂和志的書法の困難さを、できれば柴崎友香とかを引きながら言う。
・なんだか内輪ネタだなー、と苦笑する。


(現状未完)