で?っていう備忘録

再開です。

さっきまでぼくたちが観ていた『わたしたちは無傷な別人であるのか?』のこと。(3・9に追記)

書き出しに迷ったからぜんぶ書いておくことにする。


・私は、『わたしたちは無傷な別人であるのか?』を、チェルフィッチュの、公演を、観てきました。


チェルフィッチュの、『わたしたちは無傷な別人であるのか?』を、観てきた。すげかった。あと二日で公演日程が終わるようなので、そしたら少し長めにブログを書こうと思う。


チェルフィッチュの、『わたしたちは無傷な別人であるのか?』を、観てきた。とても身につまされる話だった。人物の動きや台詞のいちいちに心打たれた。「しない」を「する」のが演劇だとやりやすいのでずるいと思った。


・『わたしたちは無傷な別人であるのか?』を観た。「しない」を「する」を過激にしていた。役者が立ってもじもじしてるだけなのに様になっちゃうってすごい。ひとつの台詞や動作のあとの沈黙に胸が押し潰されそうになる。


・『わたしたちは無傷な別人であるのか?』を観た。作品には、「そしたらなんだかいきなりすごく不安になってしまった幸せな妻」という人が出てきた。「ああいうのが生理的に心底嫌いな幸せな夫」という人も出てきた。「幸せではないということだけを理解してほしくてここに存在しているのです」という人も出てきた。「電車の自動扉の上にある小型画面に流れるCMを見つめながら、訪問先へのお土産を片手に、待っている女の子」という人も出てきた。


(3・9日の追記↓。うろ覚えで書いてるので誤り・漏れあり得ます。ご了承を)


チェルフィッチュの演劇なら、『フリータイム』を前に観たことがある。その時も、舞台に出てくる人たちは、いきなり自分で他の誰かを「演じる」のではなくて、まずは他の誰かのことを「話す」ことで、「お話」を始めようとしていた。


チェルフィッチュの舞台に上がる人たちは、みんな「なかなかおしゃれな普段着」を身に着けていて、いま日本の各所で暮らしているのだろう、別に語彙選択や文法にそこまで気を配らない人たちと同じような話し方で、「お話」を語り進めていく。ほとんど無表情で。


『フリータイム』だと、「ファミレスでバイトしている「さいとうさん」が最近思ったこと」とか、「駅のベンチに酔っ払って寝ていたおっさんが身内に似てた気がした」とか、「アフロに悪人はいないんじゃないかと思った。新聞の一面によく出てくる凶悪犯の写真が、アフロだったのを見たことがない」とか、そういう話をする。


しかも、「誰に」話しかけてるのかがよくわからない感じで、話す。観客を見ていたり、いなかったり、床を見ていたり、舞台背面を見ていたり、別の役者を見ていたりしながら。観客なのか、物語に出てくる人なのか、それとも独り言なのか、はっきりしない喋り方。


だけじゃなくて、話し手と、話す内容が、ころころ入れ替わる。話し手は舞台へ上がったりハケたりして、さっきまで「さいとうさん」の話をしていた女性が、いつのにか「さいとうさん」役を演じていたり、かと思えば「さいとうさん」役だった人が話すのをやめて、今度は別の人が「さいとうさん」役として話し始めたりする。


実に今風にカジュアルな服装で、カジュアルな語り口で、カジュアルな話をする。登場人物が十二単を着たり、仮面をかぶった正義の味方の格好をしていたり、剣で斬り合ったりする演劇と比べれば、「現代的」と言えるんだろう、いちおう。


けれどもそうしながら、舞台に上がった人たちは、その人がしている話とはぜんぜん関わりのない動きをする。「片足を上げて、下ろす。」とか、「宙に手を泳がせる」とか、「壁にもたれる」とか、「屈伸運動」とか、「腕を上げて、下げる」とか、そういう。


関わりがない動きなのに、じっと観てると、面白い。『フリータイム』の終盤では、スカートを穿いた女の人が、「ささやかな幸せ」について喋りながら、酒枡の底をくりぬいたような四角い枠を、片足にひっかけながら、たどたどしく一歩一歩あるく、という動きをしていて、それをテレビで見ていた僕は思わず泣きそうになってしまった。


なぜか。なぜだろう。


他にも、僕が部屋で誰もいない時になんとなくしているだらけた姿勢とかも、する。
(あぁ、この姿勢、してるな僕も。部屋で)と思って、ハッとする。


「お話」は、話し手の入れ替わりをきっかけにして、行きつ戻りつするけれど、舞台の上にいる人が代わる代わる「お話」を積み重ねていくうちに、だんだん、観ている人の頭のなかに、(たとえば)「さいとうさん」の人物像が作り上げられていく。


「うわっ」と思う。「ほんとうはそこにはいないはずの、『さいとうさん』が、いる!」と思う。じっさいに目の前にいるのは、変てこな動きをして(笑)、無表情にカジュアルなお喋りを乱射している「役者」なのにもかかわらずだ。


そこがすごい。感動する。その「場」にいない人が、(「役者」の肉体を経由してではなくて、)「舞台」そのものに「現れる」のを、まざまざと体験できる(と言って、伝わるかな)。


で、これって、演劇の醍醐味じゃないか、と思った(でも僕は演劇は門外漢です)。


『フリータイム』を観ている時には、舞台に出てくる人たちは、みんな、「台詞」を「読む・演じる」のではなくて、「お喋り」をしているように見えた。演劇や小説、ドラマ、詩、映画などでしか使われない、「気持ち」や「思い」がはっきり伝わる、大げさな話し方をしていないように聞こえた。一見すると、「嘘くささ」や「うっとうしさ」がまるでないかのようだった。


でも実は違って、たとえば『フリータイム』で言えば、こんな台詞をじっくり聴くと、


「これから、『フリータイム』が/を 今から 始まります/始めます」


僕たちがふだん普通に言葉を選んで並べようとする時に微妙に感じる、本来なら考えなくてもいいのかもしれない程度にわずかで繊細な、「ゆらぎ」を、未精製のまま舞台上に現出させてみよう、という試みなのだ、ということがわかる。(詳しいところは、いまwebちくまで連載中の『フリータイム』に書かれている。ここでは、少しだけ引用する。)

 わたしたちは、「フリータイム」のテキストの中で、劇作家は、二つの記号、つまりブランク「 」と、スラッシュ「/」とを用いていたが、そのうちの「/」に関して、その意味するところなどについて、まだ、説明に取りかかれていなかった。わたしたちは、今から、それに取りかかろうと思う。「/」が意味するものはなにか?
 わたしたちは、いちばんはじめのリハーサルの際に、「/」について、それは助詞を選び取ることの逡巡を表す記号だと、劇作家は、言ったのだったが、それについて、もう少し詳しい説明を加えるとすれば、こうなる。わたしたちは、わたしたちが何かを言葉にして伝えようとするときに、どういった語順でその言葉を組み立てるのか、についての逡巡を余儀なくされていることがあるが、そしてそれについては、「フリータイム」のテキストにおいては、もう一方の、すでに説明済みの記号「 」によって表現されているのであるが、わたしたちは、それ以外にも、いわゆるてにをは、つまり助詞を選択するに際して、やはり同様の逡巡を、不可避的にさせられているような気がしているのだった。
 わたしたちは、つまり「/」を、その種の逡巡を表すための記号として、劇作家は、用いたのだ。
(小説『フリータイム』より。本文は、↓で読めます。
http://www.chikumashobo.co.jp/new_chikuma/okada/index.html


そんな難しいことを考えなくても、舞台に上がった人が生で「が」と「を」の助詞選択にためらう様子を見ているだけでも、んーとね。
なんて書けばいいかな。あの、あれ。好きな人がいるとして、その人の話ならなんでも面白く聴けて、その人が話をしている時のどんな些細な身振りでも、すごく気になって、妙に魅力的に感じてしまう、なんてことがあるじゃないですか。
そんな感じ。自分が好きな人がなんてことはないありきたりな話を、一生懸命話そうとしている、その身振りを見てるだけで楽しい、みたいな気分になる。


だから、僕は、『フリータイム』を観ているとき、とても、楽しかった。
「人」が「舞台」(=自分の目の前)に出てきて、何かを「話す」・「する」だけでも、ぜんぜん楽しいんだな、と思った。
もっと言えば、「話さない」・「しない」をしている、つまり、ただそこに「居る」だけでも、見ていて・聴いていて飽きないんだな、と思った。
いつだかにNHKで放映していた『フリータイム』は、そんなわけで、すごく楽しい演劇だったのだ。


でも、『わたしたちは無傷な別人であるのか?』を観ているときは、ぜんぜん違った。
ひと言でいうと、不安だった。怖かったのかもしれない。


詳しくは、もうしばらく経ってから、別のエントリを立てて書こうと思う。
僕は埼玉県練馬区で一人暮らしをしている文芸史家志望の大学生だから、チェルフィッチュの回し者とかではぜんぜんないけれど、『わたしたちは無傷な別人であるのか?』の公演は、まだ今日と明日も行われるから、内容の露出はなるべく抑えようと思う。
(と言い訳しているだけで、ほんとうは、まだ上手く言語化できてないだけなんだけど(苦笑)


(手元にないので詳説できないんですが、以下あたりを参考にさせて頂きました。

高橋源一郎氏、保坂和志氏が純文学系文芸誌のどこかでしていた『三月の三日間』のレビュー。
・数年前の夏にNHKで放映されていた『フリータイム』(演劇)
・『フリータイム』(小説)
チェルフィッチュHPの、岡田利規さんによる未完の演劇論
・他、チェルフィッチュについて書かれた数々のブログ
・『楽観的なほうのケース』)


(未練がましく追記するなら、『楽観的なほうのケース』をどうして去年誰も褒めなかったのか意味がわからない。読んでて鳥肌が立つものすごい小説なのに。ちゃんと取り上げて褒めてたのは、川端康成賞くらいじゃないか。ひょっとしたら保坂和志さんや柴崎友香さんのこれまでの仕事を引き継ぎつつ、内側から食い破って覆す、とても野蛮な一篇として読めるかもしれないのに。)