で?っていう備忘録

再開です。

おととい観た公演の感想を書くための下準備

押入れを探したら、こんな原稿が出てきた。いつだかにレポートとして書いたやつだ。
『フリータイム』と、『私率イン 歯ー、または世界』と、もう一作を並べて論じたものの一部。


『フリータイム』を読み直すと、チェルフィッチュという劇団および劇作家岡田利規が、
どういう歩みを経て今回の作品まで辿り着いたのか、少しはっきりするのかもしれないと思った。
今日は『わたしたちは無傷な別人であるのか?』の「千穐楽」(「千秋楽」ではなく)だということもわかったので、
もうしばらく、この作品およびそこから派生するもろもろのことについて、考えてみるつもり。


この女の人がいつも大学ノートに何かを書いている、あるいは描いている、ように見えるのは、これは、日記を書いているところなのだ、この人気の少ない朝のファミレスで過ごす平日の朝の三十分間を、毎日この人は、このように日記を書くことに費やしているのだ、と西藤さんは想像している、もしくはすっかりそう思い込んでいる、ということにして、わたしたちは、劇作家は、「フリータイム」のテキストを書き、また、そのテキストで演出家は、それと四人の役者は、「フリータイム」という芝居を、わたしたちは、作ったのだったが、そのように想像している西藤さんは、自分が勝手な推測をしているに過ぎないのだということを自覚していたかもしれないとはいえ、つまり、自分は別にどんな無理のあることを想像していたって構わなくて、無理があるということをさして問題にする必要も、したがってない、ということは分かっていたかもしれないとはいえ、それでも真由には、自分がそんなふうな想像しているということに、どうしても違和感をおぼえずにはいられないところがあった。そういった想像じたいに絶対的な無理がある、とまで思っていたわけではなくて、それはあくまで真由の個人的なレヴェルでの違和感であって、それは感じてなくてもいいのだと言われたらそれまでだとも言える、という気はしていたのだったが、違和感をおぼえているのはやはり事実で、それを抱えながら「フリータイム」の中で西藤のことを演じてみせなければいけない、というのは少し苦しいかも、と思っていたのだった。(『フリータイム』(岡田利規)より)


 『フリータイム』は、「わたしたち」が、劇作家が、「フリータイム」という芝居を作った時のことを思い出しながら、それを小説にして書く、というスタイルを取っている。「フリータイム」という芝居について「フリータイム」という小説がなにか言及したり、考えたり、悩んだりする時には、さりげなくそっと「わたしたちは、」という語が文頭に書き込まれている。読みながら私はまず、なんとなく変な感じ、違和感、ふつうじゃない感じ、を抱く。その奇妙な感触についてもこの小説には書き込まれていて、

そういったわけで、現在のところ、この先「フリータイム」の上演を行う予定というのは、わたしたちには、もうないのだ。無論これから依頼がやってくることだって、ないとはいえない。ただしその可能性は、とても薄いように思われる。わたしたちは「フリータイム」の上演を、これから先、行うことはもうないのだろうか? だとすると、わたしたちの「フリータイム」は、この現時点、二〇〇九年二月半ばにおいてすでに終わっているプロジェクトである、ということになるのだろうか?
そして、これがわたしたちにとってなにより気になることなのだが、そのことは、わたしたちがずっと使っている、この、わたしたち、という主語が指すものもすでに現存していない、ということを意味するのであろうか?

(しかし、たとえそうであるとしても、わたしたちは、少なくともここにわたしたちがこれをこうして書いていることによって「フリータイム」はまだ続いているのだ、ということはできる、というふうには思っているのだったが。)


 もちろん『フリータイム』も、「わたしたち」を「私」に置き換えて、言葉づかいを適宜いじると、『若い女性が鋭敏な自意識を感情に乗せて書き連ねることで成立したっぽい小説の題名』に書かれても差し支えない文になる。「私」と同じように「わたしたち」も誰かしらを指す語だからだ。「私」→「わたしたち」としたところで、「わたしたち」が「わたしたちと思ってる[……]と思ってるわたしたち!」(=「無際限の表象=代理性(ルプレザンタテイヴイテ)」)という底なしの渦にもれなく招待されることには変わりがない。
けれども、「わたしたち」←「私」と人称を開くことによって、『若い女性が(中略)っぽい小説の題名』に書かれていた出口の見えない問いが、『フリータイム』では丁寧に避けられていることがわかる。というのも、『フリータイム』では、「私とは誰か?」「私とは何か?」「私とは?」という際限ない問いの反復が始まる直前に、あらかじめ「ワカラナイヨ!」という答えが挿し込まれているのだ。問いを挿入する余地をそもそも作らないことによって、「私とは?」とならずに、「わたしたちは、[……]」と二の句を接げられるわけだ。
だから、こういう答えが返ってくることはそもそもない。

「わたしわたしわたしわたしわたしわたしわたしわたしわたしうるさいんじゃぼけなすが。おまえ何千回わたしわたしわたしゆうとんねんこら。いっかいゆうたらわかるんじゃ。わたし病かこら」(『わたくし率イン 歯ー、または世界』より)


 そのお陰で『フリータイム』(小説)は、独白から始まる『フリータイム』(戯曲)だけではばっちり伝えられなかったかもしれない「本来なら不必要なのかもしれない揺らぎ」や「有耶無耶なエリア」を書けている。


誰かにどぎつい「問い」を出すことにばかり熱中してる人はあまり気づかないのかもしれないけど、僕たちはすべてのものごとを、よく分かりもしないまま言葉にできる。ふだん僕たちが使ってる言葉の性質上、文末で言いよどめない言葉はない。「私とは、……誰かなぁ」「私とは、……何かなぁ」「私とは、……なぁ」「私は、……なぁ」「……なぁ」。『フリータイム』は、言い淀み、言い濁りを整理・整頓せずにそのまま残すことで、「わたしたち」→「私」と絞り込まないことで、「わたし病」に罹患する危険を避けながら、「わたしたちとは何か?」と問うことに成功している。いや、違う。どちらかと言えば、「わたしたちとは何か?」とあえて問わないことで、「わたしたちとは、……何かなぁ」とぼんやりすることで、「わたしたちとは、」で堂々巡りせずに「何かなぁ」にあたる部分を詳しく書けている。そしてその精度がかなり高い。