で?っていう備忘録

再開です。

「紋切り型化するカジュアル」

チェルフィッチュの公演の感想を書こうと思ったのに、
さっき見たら、あらかたのことはもう「偽日記」に書かれてしまっていたのだった。

観劇当夜に、観劇中に思い浮かんだことを、これだけまとまった言葉に出来るということは、相応の集中力を会場に持ち込んでるということだろう。僕も見習って、気を引き締めようと思う。

というわけで、ここでは、僕が気になったことを書きます。

喋り方のこと

『わたしたちは無傷な別人であるのか?』(改題検討中らしい)には、こういう言葉が使われていた。


・「未明の闘争」や「アメリカン・スクール」や「風流夢譚」にも書かれ、「フリータイム」でも挿入されていた、「てにをは」の崩れ。
青木淳悟が「このあいだ東京でね」全篇を通じて使い心地を試していた、住宅情報広告や選挙公報放送から借りてきた紋切り型な常套表現。
・「てらい」や「工夫」を廃した小説がよく使う、「その男の人は、幸せでした」といった三人称を用いた語り。



これらはたとえば、一般的な小説技法を上から目線で書いた単行本たちが口をそろえて「避けるべき」「独創性がない」「つまらない」と言う、まぁ言ってしまえば「してはいけないこと」とされているのだけれど
(ぜんぜんそんなことないけど)、
それが役者の口から声に出されるだけで、質感のある中身の詰まった言葉として聴こえてしまう。妙に生々しい。


だからかえって、僕が『フリータイム』でも観たような、一見なめらかで滞りのない若者っぽいぐだぐだした会話をしている場面のほうが、不自然というか、演技臭く感じてしまった。

何気ない会話のほうが、借り物の言葉でなされる台詞よりも、不自然に思った、ということだ。

これは意外にに僕と同じ世代(平成前後に生まれた世代)のそこそこが感じている印象なんじゃないかと勝手に思う。僕の身の回りには、すでに十分整理され、洗練され、なおかつカジュアライズされた言葉や服や思想が溢れ返っている。で、翻って僕自身のことを考えると、相変わらず古くて平凡で陳腐なことを喋り、身に着け、考えている。

●ちょっと「未明の闘争」を想起させるような、《女は、十分後に夫が帰ってきます》というような、文法的に妙な「は」の使い方が頻出するのだが、書かれるとちょっと「あれっ」と思うようなこのような使い方は、俳優の口から出るとほとんど違和感がない。これは、しゃべり言葉は「文」としての拘束よりも、時間の流れのなかで話され、理解されるからなのだろう。


と偽日記では書いているのだけど、僕はむしろじゃぁ「文」が拘束しているのは何なんだ、と思った。
阿部和重が「大いに萌えた。」と書いたり、青木淳悟がしれっと「たま」の「今日人類が木星に初めて到着したことを歌った歌詞」(←著作権対策)を小説の末尾に書き込んだりする、そういういちいちを読みながらにやついたり、思わず吹き出したりしている僕は、いったい何を面白がってるんだろう、と。
もっと言えば、「紋切り型、避けるべし」という世間一般の判断は、何を力にして流通しているのだろう、と。


動きのこと


他の日や場所での公演は違うのかもしれないけれど、僕が観た回では、肩から肘に二本白い線が入った赤いジャージを着て、赤いカラーパンツを履いた裸足の男性がちょくちょく舞台に現れた。彼は、この作品の主人公を演じたり、主人公が帰り道に使うバス停になったりしていた。この男性は他にも、

ゆっくりと胸を張り、股間を強調してかズボンをぐっと引き上げ、またゆっくりと直立不動の姿勢に戻る。という動作の繰り返し。


とか、

おもむろにズボンの右ポケットからコンビニのビニル袋を取り出し、広げ、ひっくり返し、右手を突っ込んで、バスケットボールを回すように回す。無音の会場にビニル袋のカサカサという音が響き渡る。


とか、

まるで上から引っ張りあげられているかのように、左手をぐっと上へあげ、からだ全体もぐっと背伸びをし、また戻る。という動作の繰り返し。


とか、そういう動きをしていた。台詞と意図的にずらされた不自然な動きを役者がするのはチェルフィッチュの十八番みたいなもので、所謂「変な動き」をしていたのはこの人だけではないんだけど、この人の動きだけ妙に面白かった。

他にも、笑い飯のネタ「奈良県立歴史民族博物館」に出てくる一定の動作しかしないマネキン人形みたいな動きをする人物がたくさん出てきた。しかも彼らは、舞台上で他の誰かがけっこう大事な話をしているのにもかかわらず、ふつうに無視して、そういう動きをしていた。役者が舞台装置になっていた、ということだと思うんだけど、目立ち具合で言ったら、舞台装置と演者の優劣関係が完全に逆転していたように見えた。喋りの内容がどうでもいい感じに扱われているように感じてしまった。


余談ながら、偽日記でも言及されている、公園でプールバッグを持ってビーチサンダル履いてブランコに乗っている二人の女の子の場面は、漫然と観流してしまっていた。惜しいことをした。

「幸せではない(中略)のです」という人


観劇当夜のエントリで僕はこう書いている。

・『わたしたちは無傷な別人であるのか?』を観た。作品には、「そしたらなんだかいきなりすごく不安になってしまった幸せな妻」という人が出てきた。「ああいうのが生理的に心底嫌いな幸せな夫」という人も出てきた。「幸せではないということだけを理解してほしくてここに存在しているのです」という人も出てきた。「電車の自動扉の上にある小型画面に流れるCMを見つめながら、訪問先へのお土産を片手に、待っている女の子」という人も出てきた。


この、「幸せではないということだけを理解してほしくてここに存在しているのです」という人のことを書きたい。
この人は素性不明。ホームレスなのかも、妻の内面の具現化なのかも、作外から挿入された抽象的な「悪意」なのかも作中では示されない。
で、作品の中盤あたりで、「幸せな妻」のところへふらっと現れて、この人は、かなり相当にうっとうしい長話を始める。
それも、新聞の勧誘みたいにただ「はいはい」なんて聞き流していれば済む一方的な主張の押し付けではなくて、妙に論理的というか、自分の論旨の盲点を自分できちんと見つけて補正したり、聞き手の感情を予測するような発言をしたりする。


一言でいうと、すごくうざい。


いや、ほんとに、「うざいなぁ」「うっとうしいなぁ」と思った、というそれだけなんだけど。
そう思わせられるほど、チェルフィッチュの劇に強度があった、ということなんだけど。

でも、もしチェルフィッチュの公演が無難な笑いと感動を目指した娯楽演劇だったら、観客が「うざいなぁ」と思ってしまうのは、たぶんマイナスのこと、「退屈だなぁ」につながってしまうことだと思う。

というのも、この場面だけなんだか他のシーンからすごく浮いていた。この人が舞台上で動き回りながら熱っぽく喋っている一方で、少し前まで妻役をしていた人が、壁にもたれて、だらんとした姿勢で、無言でじっとしているのばかり観ていたせいかもしれない。終盤の妻の独白を除けば、作中でいちばん強く、率直に、たっぷり時間をかけて語られる主張の一つなのにもかかわらず。
(補足すると、脚本家の、ではなくて、劇団や僕や観客も含めた「誰か」の主張。)


ただ、なんと言えばいいか、この「うっとうしさ」は、これから避けてはいられないものだとも思った。

(誰が)避けてはいられないのか。まぁ、僕か。

最近好んで読み、観ているのが、「うっとうしさ」とか「うざさ」を丁寧に廃した優しい娯楽ばかりで、未精製のもの、剥き出しのもの、ごつごつしたものに、うまく馴染めなくなってるからな。

カジュアルな服装でカジュアルな言葉でカジュアルな「お話」を語るというのが、いまの若者がなんとなくぼんやりと憧れている理想的な未来像なのだとすれば、それってじっさい現実に暮らしてる僕らの実情をただただ圧迫するだけではないのか?それって幻想ではないのか? と思ってしまっているからな。


と書いたら、「紋切り型化するカジュアル」という、新書っぽいフレーズを思いついた。このブログのエントリにしてみようと思います。