で?っていう備忘録

再開です。

「もっと評価されるべき」すべての文芸たちのために(11)

11.古川日出男と、リービ英雄


味も素っ気もなく言ってしまえば「ポストコロニアリズム」というのは、
「昔、(私たちの)植民地だった(私たちの)国がいままでどうなっていたかを見つつ、私たち自身、これからどうするかを考え直そう」という考え方だ。「私たちの」というのは、旧‐宗主国の人たちことを指すことも、旧‐植民地の人たちことを指すこともある。
もう少し堅苦しく言うとすれば、
第二次世界大戦前後に植民地主義政策を進めていた諸国が影響力を行使して来た各国の言葉・暮らし・歴史の変遷・痕跡・現状に目を向ける一方で、欧米諸国自身の言葉・暮らし・歴史の変遷・痕跡・現状を省みること」だ。
「ポストコロニアリズム」を話題にする時には、「私たち」というのがいつの・どこの・誰から誰までを指すのか、「植民地」というのがどの時期からどの時期までの支配/被支配を指すのかでよく揉める。
「いままでどうなっていたか」の見方でも、「これからどうするか」の考え方でもよく揉める。
日本で「ポストコロニアリズム」と言うと、琉球、アイヌ、朝鮮、米軍基地周辺地域に、話題が偏ることが多いようだ。東南アジアや、中国を話題にする人もいる。それはそれでいい。
いまは古川日出男の話をする。『ボディ・アンド・ソウル』を読む。
「昔、「何か」に支配されていた日本文学がいままでどうなっていたかを見つつ、私たち自身、これからどうするか」を考えながら読む。
うわあ「東京」を頭から浴びているようだ!
ここには何が書かれているのか?
痕跡。何の?
アメリカの。日本の。東京の。古川日出男の。小説家の。肉体と魂の。
概略して記す。「僕」は「フルカワヒデオ」だ。「僕」は動く。たとえば死んだふりをしてみる。読む。書く。話す。観る。歩く。見る。作る。食べる。飲む。語る。妄想する。構想する。感じる。驚く。悲しむ。愛する。たとえば生きているふりをしてみる。「僕」は動詞しか信じない。「僕」はこの小説で「あれこれ」する。それが小説になる。だからこういうと収まりがいい。「僕」はこの小説で小説する。「僕」は「あたし」だ。
書かれているのは、大量の地名、商品、娯楽、生活、それに伴う固有名詞の氾濫。人称、場面、話題の頻繁な切換え。小さな物語の躊躇いのない乱発、膨張、引用、中断、脱線、停滞、要約。虚構と現実の線引きの緩さ、脆さ、そしてそれと裏腹の消し難さ。「趣味」や「仕事」を話題にした親しい人との会話。出来事を受け止め消化するための語戯、感嘆、饒舌。物語を駆動させ続けるための思考、感情、行為。書きたい、という切実な欲望。
『ボディ・アンド・ソウル』にはわけへだてがない。「僕」の手元にやって来た小説、映画、音楽、食事、出来事、小説の芽、人、動物、町は、国境とか、宗教とか、人種とか、思想とか、性別とか、身分とか、政治的、経済的又は社会的関係で、差別されない。ローリング・ストーンズと『だんご三兄弟』とルイ・ヴィトンと角川書店書籍事業部・郡司珠子と「お前らなんか死ねばいいんだ。/みんな死ねばいいんだ。/お前らが死ねばいいんだよ。」とナイル河と蛸のマリネと大蒜+トマトのスープとゲラと「僕の文章がいきなり狂う。」とチュツオーラの『文無し男と絶叫女と罵り男の物語』と三ツ矢サイダーと現役ムエタイ王者と「ウホッウホッウホッウホッ!」とが、一緒くたに、同じ地平に書かれている。それぞれの言葉は質的に等価に扱われていて、どれか一つの単語が特別な役割をしたり、謎を解く鍵になったり、深い意味を持ったりしない。「僕」と「あたし」が語るすべての小さな物語の群れを掻き分けていった時、読者がぶつかるのは、強靭で揺るぎない無尽蔵の、


書きたい!


という意志だけだ。「僕は書きたいから書くのだ」というとてつもなく簡素な欲望だけがこの小説を駆動している。このとてつもなく簡素な欲望が、この小説では、論理的な中継ぎをまったく経由せずに「生きたい!」と「愛したい!」に結び付けられている。「書きたい!」と「生きたい!」と「愛したい!」がこの小説では最短距離で接続されていて、ほぼ同義として扱われていると言ってもいい。
しかしほとんど何も欲していないに等しい欲望だ。小説を書く人にとって、とても簡素で、根本的で、当たり前のことを、どうしてこの小説は、こんなにも過剰に、大量に、執拗に欲望しなくてはならないのか。この小説自体も自己批判しているが、「君はどうして物語りつづけなければならないのでしょう」。
すごく簡素な応答。人が「私は生きたいから生きるのだ」と欲するとき、その人は、いまにも死んでしまいそうになっている。しかも、死にたくない、と願っている。「生きたい」と叫んでいるあいだだけは、生死が厳かに静かに別れるその時を、いつまでも遅らせ、どこまでも宙吊りにしておけるのだ。
「たとえば僕はここで死んだふりをしてみる。すると」「僕」は生きているのか死んでいるのか考えなくて済む。しばらくのあいだだけ、自分が死んでいることを忘れていられる。生きていられる。
物語は生きるために書かれ、書かれることで生きられる。
そしてこうも言い換えられる。
物語は死ぬために書かれ、書かれることで死ぬ。
何かを忘れないために書くこと、いつか誰かに読まれるために書くこと、「残る」ために書くことは、その何かに形を与え、その何かの動きを止めること、その何かの息の根を止め、いつまでも変わらないものにしようと試みること、つまり、その何かを殺すことでもある。前もって息の根を止められていることで、その小説に書かれた言葉、出来事、物語は、次に誰かが息を吹き込む(=読む)まで、その小説の内側に閉じ込められ、生きることを免れられる。いつまでも、死んでいられる。
「たとえば僕はここで生きているふりをしてみる。すると」「僕」は生きているのか死んでいるのか気にしなくて済む。しばらくのあいだだけ、自分が生きていることを忘れられる。死んでいられる。
そんな古川日出男へ、僕からのすごく簡素な問い。


 ……それって愛なの?


本題に戻ろう。「昔、「何か」に支配されていた日本文学がいままでどうなっていたかを見つつ、私たち自身、これからどうするか」
『ボディ・アンド・ソウル』は、書くことですべてをわけへだてなく愛し、生かし、殺そうとする。もちろんそんなことは成功しない。この小説、見かけはすごく元気がいいから、つい騙されてしまうけれど、書くことは、どうあがいても、何かを少しだけ、なるべくわけへだてなく、しばらく、愛すること、生かすこと、殺すことにしかならない。「書きたい!」という欲望は常に挫折する。小説には、不完全な意志に駆動され、不完全に達成された行為の、痕跡だけが残る。そしてそれは他の小説にも言えることで、ここで古川日出男だけを責めてもしかたがない。
本題に戻ろう。小説を書く人にとって、とても簡素で、根本的で、当たり前のことを、どうしてこの小説は、こんなにも過剰に、大量に、執拗に欲望しなくてはならないのか。どうして『ボディ・アンド・ソウル』は、元気がいいふりをしなくてはならなくなったのか。日本文学は、いままでどうなっていたのか。