で?っていう備忘録

再開です。

正直、じっさい、『小説の精神』>『裏切られた遺言』>『カーテン』

「論」の誕生


どんなに些細な物事についてだとしても、一群の言葉や話、お喋りの集積体は、「論」と呼ばれるようになった時、既に、大雑把な輪郭を持ち、ある程度の自立を手に入れている。「論」は、常に「もっともらしさ」と「通用する限界」を持っていて、多くは、既存の「論」からの反発や、拡張、洗練によって成立する。「論」の誕生を自然発生的なもの、たまたまのことだとするかどうかは、結局のところ「論」の成立地点に立ち会える/遡れるかどうかにかかっている。
面白いことに、さまざまな学問、芸能、文化の領域では、そうした言わば「歴史上の居住権をめぐる闘争」自体も「論」として呼ばれ、領域内に立ち入った人々の参照先として扱われる。

おそらく、こうした遡り/立会いを求める動きは、論理式における命題の論理証明と同じ機能をしているのだろう。ある命題の「もっともらしさ」を保証するとき、その時すでに誰にとっても自明とみなされている事柄からの論理的・推論的拡張の手続きをいつでもどこでも通用するように示して見せるのと同じような身ぶりで、その領域内で「論」として自立させるべき事柄への通史的・文脈的遡及の物語を、その場その場でのその「論」の信頼性を保つために、語って見せるのだろう。


確かにセルバンテスは偉大だけれど


諸芸術の作法も、「論」の誕生と同じような成り行きで生まれる。
たとえば『カーテン』から言葉を引くと、


ラブレーは自分が小説家であるか否かなどさして気にしていなかったし、セルバンテスは先行する時代の空想的な文学にたいする辛辣なエピローグを書いているのだと思っていた。この両者ともにみずからを「創始者」とは見なしていなかった。小説芸術の実践だけが事後的に、徐々に、このふたりにそんな地位を付与したにすぎない。」


ここではミラン・クンデラは、西欧の散文の歴史を振り返るその身振りでもって、自論に説得力を持たせようとしている。論理的帰結の蓄積ではなくて、史的事実の指摘で自説を自立させようとしている。


確かにミゲル・デ・セルバンテスは、愛すべき哀れな読者家アロンソ・キハーダに、みすぼらしい兜と鎧と剣を持たせて、時代遅れの騎士道物語の妄信患者「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」を演じさせた。

セルバンテスは、古い時代の夢物語が大好きだったし、大嫌いだったので、アロンソ・キハーダは時代遅れの空想叙事詩(old-fashioned fantagy)から目を覚ませない。狂ったようなふるまいを、至る所でしてしまう。
さまざまな時代・国籍のさまざまな本好きたちは、我が身につまされるからか、そんな「ドン・キホーテ」の姿が可笑しくて、悲しいのだけど、この可笑しさと悲しさの同居、二十一世紀日本の慣用表現なら文末に(苦笑)とでも書くべきこの叙述スタイルは、別にセルバンテスが新たに開発したものなどではない。
きっとこの庶民的な喜劇の話型は、探せばさまざまな国のさまざまな昔話にも、同じようなものが見つかるだろう。セルバンテスに独創性を求めるとすれば、それは彼が仕事を徹底的に徹底したことであって、前時代の一大流行を軽やかに笑い飛ばすために、十分な質と量の言葉を惜しげもなく注ぎ込めたところにある。
セルバンテス(だけ)が、(例外的かつ特権的に)尊敬されるのは、冷たい言い方をしてしまえば、彼が後の小説家たちにとって(たとえばドストエフスキーにとって)、お手頃な尊敬の矛先だったからで、小説作法として自立し得るだけの補語が後の時代の小説家たちから十分な質・量だけ与えられたからに過ぎない。

だから、アインシュタインがいなくても物理学史は成立するが、フローベールなくては文学史は成立しないというミラン・クンデラの言い分は、冷戦が終わった後の世界に生まれたぼくからすれば、文学の歴史の自立性を自明視し過ぎていて、その後のさまざまな芸術――映画、漫画、アニメ、ゲーム、――との関わりを不当に無視しているように読めてしまった。
もちろん、クンデラが語ろうとしているのが、「国境を越えてさまざまな国々のもの書きが互いに影響を与え合い、より好い作品を書き連ねてきた歴史」の重みだというのはわかる。
『カーテン』は主に西欧諸国の小説好きたちへ向けて書かれているのであって、『サガ』を語るのになぜ『源氏物語』を語らないのだなどというのは単なるいちゃもんつけだ。


狭苦しさを誇れない世代です


なのに、この本を読んでいる時、ぼくはなんだか狭苦しい気分になった。
クンデラが適切量の言葉をひょいひょいと投げる。
彼が小説を読み・書く時に大切にしていることがするすると導き出されていく。
その様を眺めているのはとても心地が好いし、目が覚める思いがする。
この人が言っていることは、きっと信じても大丈夫だとも思える。
なのに、ぼくはここで彼が断言的に語っている「小説の素晴らしさ」に堂々と胸を張れない。
小説を第一義に、第一位に、最優先に、最上級に優れたものだと嘘偽りなく言うことができないからだ。
二十一世紀日本にはさまざまな芸術様式がすでにいくつもあって、どの分野でも、くだらないものばかりが数多く流通し、より優れたものはあまり人には受け入れられていないと思われている。
どの分野のどの作品も、「人が生きていく上でほんとうに大切なことは何か」をそれぞれのやり方で伝えてくれようとしている。
作られ方が違うだけで、どれも優れた作品たちだ。
その一方で、どの分野のどの芸術作品も、ふだんのありふれた暮らし、日常の瑣事、俗っぽい関心と地続きであって、いつも・いつまでもひとつの独立した崇高な何かしらではいられないのだということも知っている。
だから、クンデラが書くこんな言葉にぼくは同意できない。

芸術が新しいものを捜さなくなり、反復を美化し、伝統を強化し、集団生活の安定を保証することを誇りにしていた、いくつもの長い時代があった。そのとき音楽と舞踊は社会的な儀式、ミサ、そして祝祭の枠内にしか存在していなかった。やがて、十二世紀のある日、パリのひとりの教会音楽家が数世紀来不変だったグレゴリオ聖歌の対位法の一声を追加するという着想を抱いた。根本の旋律は依然として、遠い昔からのまま同じだったが、対位法の声は一つの革新であり、それが他の様々な革新、三声、四声、六声の対位法、だんだん複雑で予期せぬものになってゆくポリフォニー形式に道を開いた。作曲家たちはもう以前になされたものを模倣しなくなったので匿名性を失い、彼らの名前が遠方への道筋に標をつけるランプのように灯されることになった。音楽は固有の飛翔を遂げ、数世紀のあいだに、音楽の歴史になったのだ。
ヨーロッパのすべての芸術は、それぞれ時を得てそのように飛翔し、それぞれ固有の歴史に変えられた。それこそがヨーロッパの偉大な奇跡だったのだ。いや、その芸術が、ではなく、その歴史に変えられた芸術が、である。
残念ながら、奇跡は長続きするものではない。飛翔するものは、いつの日か着陸する。不安に捉えられ、私は想像する。芸術が、かつて言われなかったことを捜すのをやめ、反復を美化し、個人が平穏と歓喜のうちに存在の画一性と一体になるのを助けるよう芸術に要求する集団生活に、ふたたび従順に奉仕するようになる日のことを。
なぜなら芸術の歴史は滅びやすいから。芸術まがいの幼稚な駄弁は永遠だから。

≪芸術まがい≫……ですって?


クンデラが「芸術まがい」と呼んでいるものは、要は、程度の低い技術と発想で作られたもの、浅はかな模倣と反発で作られたもの、作品未満の作品、コンテンツ未満のコンテンツのことだ。鑑賞に堪えないもの、とるに足らないもの、くだらなく愚かなもののことだ。
彼にはきっと『あたし彼女』(kiki)は読めないし、『ぶーんは桃たろおのようです』は認められないし、『うちの母ちゃん凄いぞ』(クズ子)も『メンヘラちゃん』(琴葉とこ)も楽しめないんだろう。『スーパーマリオギャラクシー2』(任天堂)は時間の無駄だと言うし、『このあいだ東京でね』(青木淳悟)は「面白くもなんともないただのこけおどし」、「破滅ラウンジ」は幼稚な芸術ごっこ、『リストラなう!』(たぬきち)は記録であって作品ではないとみなすだろう。

なぜなら彼は小説が大好きだからで、古典音楽が大好きだからで、少し古い前衛演劇が大好きだからだ。彼は自分が属している芸術、――すでに十分に自立しており、誰の手を借りなくても個々の作品の好さが権威を持っているような芸術の内側で、ものを言っている。


でもクンデラは好いこともゆってる。


もちろんひとつひとつの言葉はいちいちもっともで、納得がいくのだ。たとえばこれらはしっかり的を射ている言葉だとぼくは思う。

ドン・キホーテの死は、それが散文的であり、どんなパトスも欠いているがゆえに、なおさら感動的になる。彼はすでに遺言状を認め、それから三日のあいだ、心から好きな人びとに取り囲まれて死のうとしている。それでも、「姪はよく食べ、家政婦はきこしめし、サンチョは上機嫌だった。なにかしらの遺産を譲り受けるという事実は、死者を思いやって人が感じる悲しみを掻き消したり和らげたりするもbのだからである。」

叙述は一つの思い出、したがって要約、単純化、抽象化なのだ。人生の、人生という散文の真の顔は、ただ現在時のなかにしかない。しかしどのようにすれば、過去の出来事を語りながら、それが失ってしまった現在時を回復してやることができるのか? 小説芸術はその答えを見いだした。過去を場面として提示することである。場面は、たとえ文法的に過去時制で語られていても、存在論的には現在である。私たちはその場面を見、聞くのであり、それは私たちのまえで、いま、ここで展開するのだ。

彼がチェコ語で本を書いたと想像してみよう。こんにち、いったい誰が彼の本のことを知っているだろうか? カフカを世界中の人びとに認めさせるために、マックス・ブロートは二十年のあいだ途方もない努力を払わねばならなかった、しかももっとも偉大なドイツ作家たちの支持を得ながら! たとえプラハの一編集者がどうにか、どこの馬とも知れぬチェコ人作家カフカの本を出版できたとしても、彼の同国人は誰ひとり(つまりチェコ人は誰ひとり)として、「われわれがあまり知らない(of witdh we lnow little)遠く離れた国」の言葉で書かれた、突飛なテクストを世界に知らしめるために必要な権威をもちえなかったことだろう。いや、信じてもらいたい。もしカフカチェコ語で書いていたとしたら、こんにち、誰ひとりとしてカフカのことを知らないことだろう、誰ひとりとして。

世界は、最初の逢い引きに急いで出かけるまえに化粧をする女性のように、私たちの誕生のさいに私たちのほうに駆けつけるときには、もうすでに化粧がなされ、仮面をつけ、予備解釈されている。だから、ただ順応主義者たちだけが世界に騙されるのではない。反逆的な者たちもまた、すべて、そして全員に反対しようと貪欲なあまり、自分たち自身がどれほど従順であるか気づいていないのだ。彼らはただ反抗に値するものとして解釈された(予備解釈された)ものにしか反抗しないのである。

と・いうわけで

本書に通低しているのは、若さに甘えて抒情や空想に現実逃避する人々の目を覚まさせることであり、本書でそれは「カーテンを引き裂く」と呼ばれている。そしてクンデラはそうした「引き裂き」を小説の魅力、書くべきこと、読むべきところ、の主眼に据えている。だからクンデラの姿勢は圧倒的に正しいようにぼくも思うし、肯定したいけれど、共産主義革命の幻想が静かに歴史の表舞台から退場して久しい二十一世紀、日本で、ぼくは彼の書く本をそっくりそのまま受け止めることができない。

素晴らしい本には違いないのだけれども。読むべき一冊ではあるのだけれども。