で?っていう備忘録

再開です。

吉野弘を「発見する」詩人だと仮定する1

講義で提出したレポートです。


ハイコンテクストでごめんなさい。以下で本文が読めます。

「I was born」「素直な疑問符」(http://bit.ly/ahfnGJ
「身も心も」(http://iori75.finito-web.com/yosino2.html

前置き

今まで見たことがない物のかたちや姿に出会う。あ、これは、と惹かれるものを覚える。やがて忘れてしまうこともあるが、いっこうに消えていかないこともある。そういうとき、不意にある日気づいたりする。あれはこの世界の秘密のひとつを告知していたのだ。
吉野弘さんは、そういう意味でしばしば〈発見する〉詩人である。そういえば戦後詩の名作といわれる、かれの「I was born」も、カゲロウの雌の卵の詰まった腹のイメージが引き金になって展開される生命論だった。(三木卓「発見する」)

三木卓の論に従って吉野弘を「発見する」詩人だと仮定する。すると吉野弘の詩作群のなかでも、とりわけある傾向を持った詩たちに、より注目できる。何か、小さなことだけど、それによってものの見方ががらっと変わってしまいかねないような、ちょっとした気づきに、そっと言葉を(ある程度の質と量の)を与えたのだろう詩篇たち。ここでは4篇を比べ読みする。「I was born」「身も心も」「風が吹くと」「素直な疑問符」。
私見では、順に、「やばい詩」「すごい詩」「びみょうな詩」「しょうもない詩」だ。
なぜかをまずは「しょうもない詩」から話していく。

しょうもない詩


これは、小鳥が首を「くいっ」とかしげることと、人が「?」となったとき思わず首をかしげることとのつながりを「発見」したところから詩想を得てるけど、小鳥の「くいっ」と人の「?」のつながりを感じたおどろきにこだわり過ぎていて、詩の言葉がそこから先へ向かおうとしていないから、つまらない。わかりやすすぎる。「しょうもない詩」だ。小鳥の動作を人間の常識に回収してしまっている。ここでは小鳥は作者が願望を詩として言うための小道具にしかなっていなくて、たとえば、

ハム太郎に声をかけてみた
ハム太郎は不思議そうに首をかしげた。

わからないから
わからないと素直にかしげた
あれは
自然な、首のひねり
てらわない美しい疑問符のかたち。

時に
風の如く
耳もとで鳴る
意味不明な訪れに
私もまた
素直にかしぐ、ハム太郎の首でありたい。「うちのハム太郎」(春名ヒロ子)


なんて置き換えをしてしまっても詩として通用してしまう。なけなしの言葉で書かれていないということだ。詩としての出来はよろしくない。

びみょうな詩

風が吹くと
おじいさま
お池の水に
シワがたくさん
出来るのね


なにが吹くと
おじいさま
おでこやほっぺに
シワがたくさん
出来ちゃうの


風がやむと
おじいさま
お池の水の
シワがきれいに
消えるのね


なにがやむと
おじいさま
おでこやほっぺの
シワが消えるの
お池のように「風が吹くと」(吉野弘)


次に「風が吹くと」はどうか。これは「びみょうな詩」だ。この詩も詩想はなんてことはないもので、吹く風に立つ池の波紋と、おじいさまのおでこやほっぺのシワにつながりを「発見」したところから詩が始まっている。この詩は、要は、「波立つ池のシワは時が経てば消えるけれど、人の老いのしるしはその人が生きているうちは消えることがない、ということを知らないくらい幼い人が、無邪気なのかなんなのか、とても鋭い問いをする」というものだ(と主成分を抽出できる時点で詩としての強度を欠いてるけど)。「くいっ」と「?」のつながりに安住していた「素直な疑問符」に比べれば、「池のシワ」と「おじいさまのシワ」のつながりから出発して、「老いのとりかえしのつかなさ」を問うというところにまで詩が到達しているから、「しょうもない詩」ではないとは言える。だけど、それだけだ。作中主体は無邪気から離れて大人に「老い」を受け止めようとはしていない。問いを引き受けようともしていない。受取確認もせずに投げっぱなしにしている詩だ。詩としての出来はあまりよろしくない。

すごい詩


さて次は「身も心も」。この詩の「発見」をだらだらと書くとこうなる。いつもは一人の人のなかでセットになっているはずの「心」と「身体」は、愛する人と向き合った時には、お互いから離れたところにそれぞれ立って、お互いの高ぶりや喜びについてゆこうとしたり、お互いの「ためらい」や「無知」に驚いたりする……のだろうか、「身」も「心」も?
この詩には少なくとも三つの「発見」がある。「身体」の驚きと、「心」の驚き。それから、「身体」と「心」の驚き両方への驚き。
こんな風にだらだらと書いてしまうと、「心」と「身体」の対比がうまく書き表せれないし、双方のあいだを見つめる作中主体の張り詰めた気持ちのようなものも損なわれてしまう。語り手の不在――というよりは、この詩に書かれている「身」や「心」の持ち主がおらず、かといって読み手が何の気なしに座り込めるような空席もなく、穴があいたようになっているのも、台なしにしてしまう。韻律を与えようなんてもってのほか。この詩を詩たらしめているものは、けっきょくはやっぱり言葉の力だということにするしかないのだろうけど、ひとつ言えることは、たとえばこんなふうに、

身体は心と一緒なので心のゆくところについてゆく。心が愛する人にゆくとき身体も愛する人にゆく。身も心も。清い心にはげまされ身体が初めての愛のしぐさにみちびかれたとき心がすべてをもはや知らないのを身体は驚きをもってみた。おずおずとしたためらいを脱ぎ身体が強く強くなるのを心は仰いだしもべのように。


改行と一字空けを消してしまうと、この詩の強さはかなり減ってしまう。改行と一字下げを消すと失われてしまうものが何かといえば、たとえば読みの遅れ、話の進みの滞り、改行や改連でのひと休みだ。

強い身体が 心をはげまし
愛のしぐさをくりかえすとき
心がおくれ ためらうのを
身体は驚きをもってみた。


この連には遅れをとってためらっている「心」に気づいた「身体」の驚きが書かれている。細かなことを大げさに取り上げて大騒ぎしてるだけなのかもしれないけど、「心がおくれ」と「ためらうのを」の間の一字空けはとてもよく効いている。形式上の工夫によってもたらされた「読みのおくれ」が、詩に書かれている「心」の「身体」からの遅れと符号している。形式と内容が呼応しているのか、形式が内容を導き出しているのか、内容が形式を束縛しているのかは、正直なところよくわからないものの、たとえばこれは『昭和以降に恋愛はない』(大江麻衣)からの抜粋なんだけど、

胸と、)腰以外を好きになってくれる男でもいたらいいな、だいたいがみんなそれを必死でこねる、発達しない。女子はひとりの夜いつも自分で自分をおしまいにする、自分でこねているとこの奇妙な形の性器一帯は粘土みたいに思えてくる必死でこねている、いやになる、作業。セックスはひとつとひとつの作業、だいたいが一人で持つ。みんながこうやって、こねているのだから…やさしいひとの顔さえも変な顔にみえてくる、怯える。そのひとが自分からいなくなってしまう!男はいいように触るので、その形は自分で直すしかないのだから、女子が性器をいじるのはそういうこと。粘土をやわらかくするには水がいる。女子の水は体内から外へそっと出る、夜に。


この詩は読点などで改行したりなんてしたらその勢いが死んでしまう。「身も心も」では改行が功を奏し、「昭和以降に恋愛はない」では書き連ねが功を奏しているのだ。要は、二つの詩は両方とも、この形でこの言葉を使ってしか上手くいかないような書かれ方をしているということだ。



ここまでの話をまとめると、「身も心も」は以下の理由から「すごい詩」だ。


  1. 少なくとも3つの「発見」が書かれているところ
  2. 作中主体の「座」が空欄になっているところ
  3. 改行や一字空けで生まれる「遅れ」が詩の題材(=「心」と「身体」の「遅れ」)とぴったりで、びしっと決まっているところ。

……なんだか現代詩の時評をしているような気分になってきた。一度に大量に詩を読んで、それらすべてに分け入って、心を傾けていたら、いつまでたってもことが進まないし、なにより疲れてしまうので、大切なところを見逃さないように注意しながらも、さっさと読む、それでもなにか、訴えるものや引っかかるところのある詩があれば、それを取り上げる、ということを、しているような。
目利きにはなれるかもしれないけど、許容できない詩がどんどん増えていくようで怖い。選りすぐりを繰り返していって、勘が鋭くなることは、初めはもちろん歓迎すべきことだけど、それは、どこまでそうなのか? もうどんな詩を読んだって面白くもつまらなくもなんともないただの空気のようなもの、日々の寝食のようなものに感じられてしまう時というのが、いつか来るのだろうか? その時詩人はどうするのだろう? 死ぬのか、詩人として? それとも、その詩人は、詩、そのもののようになるのか? 

やばい詩


ともあれ「I was born」。これはやばい。「やばい詩」だ。
まずは抜け・漏れを恐れず詩の中味をだらだらした言葉に置き換えていく。ある日、身重の女をみかけた少年が、「〈生まれる〉ということがまさしく〈受身〉である訳を、自分の意志ではないんだということを、ふと諒解し、興奮して父に話しかける。父は、少年の母が少年を産み落としてすぐに死んだ時のできごとを話す。ある日父は友人に蜻蛉を拡大鏡で見せてもらう。悲しくなるほど薄命な蜻蛉の、雌の身体は、「口は全く退化して食物を摂るに適しない」代わりに、「卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰る返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えた。」少年の脳裏には、「ただひとつ痛みのように切なく」「ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体」が灼き付けられる。
この詩に書かれている「発見」を数え尽くすには少し手間がかかる。少年と、父が、二人ともこの詩に書かれた話題に、なけなしの言葉でしか気持ちを言い表せなくなるほど、驚いている。少年は「I was born」の発見に驚き、父は「I was born」を発見した少年の興奮を、少年の成長を、そして裏腹の幼さを、つまり少年が自分の発見の内に潜む怖ろしさに気づいていないことを、発見し、驚く。父は蜻蛉の話を記憶の底から「発見」し、妻の死を再び身にさし迫ったものとして「発見」する。少年は蜻蛉の話を「発見」し、母の死を身にさし迫ったものとして「発見」し、父のもう何も聞こえなくなるほど強く怖ろしい光景を「発見」する。いくつもの立場・場面でのいくつもの「発見」がこの詩のなかでごちゃごちゃに交錯していて、その厚みと重なりとが読み手に強く負荷を与えている。それが詩としての面白さにつながっている。

まじでやばい詩


この詩のなかで、蜻蛉の雌の薄命と、少年の母の短命とにつながりを見つけ、「生まれる」という出来事と、「I was born」という言葉とのつながりを見つけているのは誰かと言えば、それは、父と少年の両方だ。それでいて、二人の「発見」は、それぞれ別の方角を向いているし、双方に(そして読み手に)ぬるい共感を許さないほど極私的で、寄り添いがたい。人の生死のことを書いた詩だから、僕が嵩増しして読んでいるだけなのかもしれないけど、この詩には、できれば「発見」するべきではないのかもしれないことが書かれている。気づいて言葉にしたところでどうしようもないから、なるべく黙って通り過ぎなければならないことが書かれている。この詩の「発見」は無力なのだ。「I was born」は、というより、「やばい詩」一般というのは、それを読んだところでどうしようもない。幸せになれるわけでも、世界の見え方が変わるわけでもない。「やばい詩」には、そうとしか書けないことを、そうとしか書かれていないからだ。「しょうもない詩」一般も「びみょうな詩」一般も、「発見」を言葉にして見せつけてやろうとか、誰かに一泡吹かせてやろうとか、目立ちたいとか、そういう下心が透けてみえるのに。「すごい詩」一般が、書き手の手さばきの見事さや、詩想の独特さ、手入れの行き届きとかに目がいきがちなのに。
とはいえそれは、読み手にとって「やばい詩」の非の打ち所がなくなるということではない。その人にとって――本稿では僕にとって――非を打つとか打たないとかはその詩の魅力とは関わりがなくなってしまうということだ。(この詩を読んだ僕は、これから生まれてくる自分の子供が、いつか自分のように死のことを思うようになるかもしれない可能性を知り、それを怖れた。一方で、自分の父や祖父が、いまの自分のように死のことを思いながら暮らしていたのだろう可能性を知り、それを怖れた。)
これは実はかなり困ったことだ。なぜなら「しょうもない詩」「びみょうな詩」「すごい詩」「やばい詩」という区分けの仕方は、大筋ではだいたい一致するものの――詩により多くより良く触れた人の好みはある程度の偏りと揺らぎを含みながらもかなり似通うし、詩への触れ方がより少なくより悪かった人の好みもある程度の偏りと揺らぎを含みながらもかなり似通っている。さらに両者の分布の差ははっきりと途切れているわけではなく、たぶん緩やかな指数関数状か、幾分かずれを含んだ周期関数状になっている――けっきょくは書き手/読み手一人ひとりの過ごしてきた時間、触れてきたもの、考えてきたこと、いまいる場所と境遇などに左右されて、必ずしも一様ではないから、「やばい詩」=「そうとしか書けない詩」という等置が正しいのなら、「やばい詩」が成立するのに必要で十分な条件は、いつも・いつまでも確定記述として定められないということになる。なぜか。

やばい詩が成り立つには


紋切型表現として、「その人にしか書けない言葉」という言い方がある。人の心をけっこうしょっちゅう強かに打つのはこの手の言葉だと言われている。これは、その人が秘密裏に独自開発した特異な(つまりは誰にも伝わらない)言葉ではなく、その人にとってそうとしか書けない言葉ということだけど、もしある人にはそうとしか書けない言葉というものがあるのだとすれば、その一方では、ある人にはそうとしか読めない言葉、というものもあることになる。書き手/読み手一人ひとりの過ごしてきた時間、触れてきたもの、考えてきたこと、いまいる場所と境遇などに左右されて、必ずしも一様ではないのだから、「やばい詩」=「そうとしか書けない詩」という等置が正しいのだとすれば、同時に、「やばい詩」=「そうとしか読めない詩」という等置も正しくなければならない。つまり、「やばい詩」というのは、「そうとしか書けない書き方で書かれたもの」が、「そうとしか読めない読み方での読み」と、たまたま出会って、たまたま合致した時にしか、生まれないことになる。僕がここまで書き連ねてきた「しょうもない詩」「びみょうな詩」「すごい詩」「やばい詩」という区分けはたまたまそうなっただけで、他の誰かや別の日の僕からすれば、必ずしもそうとは限らないということになる。エージェント志向に倣って、一篇の詩も、一人の人も、それなりの質と量の記憶と手続きを備えた「もの(=物/者)」の集まりとしてとらえてみるなら、「やばい詩」は、「もの」と「もの」の相互干渉によって初めて生まれるのだ、と言える。

だから「やばい詩」というのは…、


ここへ来て、「やばい詩」というのは、詩作上の技術的な改善によってだけでは志向し切れなくなる。「やばい詩」が生まれるためには、詩を読み・書きする「場」だけではなく、送り渡し/受け取る「場」でのやり取りが不可欠になる。送り渡し/受け取る「場」での、「権利」や「債務」や「契約」の奪い合い・譲り合い・押し付け合いは避けられなくなる。

文学と経済に境界はない。

ということになる。だからはっきり言えば、「全ての雑音・雑事から超越して独立に存在する優れた詩」というのは、閉じた共同体だけで限定的にしか通用しない狭量な幻想以外の何者でもなくなってしまう(使えない紙幣はただの紙くずだ)。わかりやすく言えば、「誰にも伝わらない詩」は難解なのでも複雑なのでもなくてただの「情報のごみ」でしかなくなってしまう(地域貨幣は他所ではただのごみだ)。「詩が読み/書かれる「場」」が老いて枯れて縮んでしまったら、すべての詩は、関わりのない人たちの目には見えないところに沈殿している「情報のごみ」の集積体だということになる。(和同開珎には骨董価値しかない。)たとえば僕にとって『維摩経』全文がそうであるように。『法華経』全文がそうであるように。

越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。こゝに詩人といふ天職が出来て、こゝに画家といふ使命が降る。あらゆる藝術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い。


夏目漱石が『草枕』に書いてるのがまさにその通りで、あらゆる芸術作品は、ふだんなんてことはなく暮らしていた人が、ある日、いきなり「どうにもならん」という事態になり、その「どうにもならなさ」とでも呼ぶべきものはどうやらなくなりそうになくて、どうしよう、となった時に、作られたり、求められたりするものだと思うのだけど、野菜や肉のように、毎日食べなければ死んでしまうということはないし、なしで/代わりのもので済ませられている人だっていくらでもいるから、なくなって困る、ないと生きていけないということがなければ、少しずつ減らしていったほうがいいのかもしれない。なくて困る、ないと生きていけないという人は、そういう嘘を吐くのはやめてほんとうのことを言うか、もしくはなくても生きていけるように、心身を作り変えたほうがいいのかもしれない。いまさらそんなことをすると心身に負担がかかり過ぎてやってられないという人は、似た体験をしている誰かを見つけて、より多く見つけて、日当たりがよくて水はけのいい場所で、言葉で編まれる物語の自給自足を試みればいいのかもしれない。











……就職したい。