で?っていう備忘録

再開です。

1920年代の文芸オタ・コミュニティに訪れた危機とはなんだったのか

夏目漱石『一夜』は失敗作か?

夏目漱石は1905年7月26日に『一夜』という小説を書いた。こんな話だ。
二人の男と一人の女が縁側で、葉巻や団扇片手に、画や夢についてとりとめないお喋りをし、「三人は思い思いに臥床に入る」。三人が寝静まると、あとを埋めるように語り手が顔を出し、時間と空間の大小についての小難しい話をぶつぶつつぶやいていき、こんな一節で小説は終わる。

八畳の座敷に髯のある人と、髯のない人と、涼しき眼の女が会して、かくのごとく一夜を過した。彼らの一夜を描いたのは彼らの生涯を描いたのである。
なぜ三人が落ち合った? それは知らぬ。三人はいかなる身分と素性と性格を有する? それも分らぬ。三人の言語動作を通じて一貫した事件が発展せぬ? 人生を書いたので小説をかいたのでないから仕方がない。なぜ三人とも一時に寝た? 三人とも一時に眠くなったからである。


末尾に至って小説は、あろうことか自作解題を始めてしまう。けれども作者が『一夜』で語ろうとしているのは、何らかの一貫性を持った「お話」に組み込まれる以前のちょっとした「場面」なのだから、この書き方は明らかな説明過多だ。話らしい話のない小説、事件らしい事件のない映画、話題らしい話題のないアニメにどっぷり触れている二十一世紀の私たちから見れば、この小説は「三十分の後彼らは美くしき多くの人の……と云う句も忘れた。ククーと云う声も忘れた。蜜を含んで針を吹く隣りの合奏も忘れた、蟻の灰吹を攀じ上った事も、蓮の葉に下りた蜘蛛の事も忘れた。」までで終わっておくべきで、「彼らはようやく太平に入る。」以降はすべてが余計な注釈だ。同じことは『坑夫』にも言える。
ではなぜ夏目漱石ともあろう小説家が、どうしてわざわざ作品の完成度を下げるような書き足しをしたのかという問いには、当時の読者のリテラシーが追いついていなかったからという答えが適当だろう。物足りなければ、回答の文頭に「(漱石が想定していた)」と付け加えればいい。『文学テクスト入門』(前田愛)が『草枕』を素材に詳しく分析しているように、ラスボスがいないRPGはRPGではないだとか、萌えないアニメはアニメではないだとかと同じ、小説はこういうものでなければならないという思い込みとの苦しい付き合いを、この頃の夏目漱石は余儀なくされていたらしい。
草枕』は話らしい話のない小説で、ほとんどは「余」が考えごとをしたり、風景を眺めたり、人と話したり、ちょっとのんびりしたりすることに言葉が費やされている。この小説には、大恋愛も殺人も焦燥も冒険も英雄もない、ということだ。この小説にいちばんしょっちゅう出てくる「那美さん」は「余」が逗留先で出会った若い女性で、

「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋のほかに何か読むものがありますか」

などと言う。こういう問いに答えて「余」は、

「小説なんか初からしまいまで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです」

とか、

「普通の小説はみんな探偵が発明したものですよ。非人情なところがないから、ちっとも趣がない」

だったりと答える。
『文学テクスト入門』が指摘している通り、この二人の登場人物のやり取りには、『草枕』をめぐる読み手と書き手のやり取りが重ねあわされている。「余」と「那美」さんのやり取りは、結末の劇的な終焉へ向けて焦らされることに疲れ、うんざりしている書き手自身と、まだそこまでには至っていない読み手とのやり取りに一致する。漱石が「読み・書き終えること」と「生き終えて死ぬこと」とを同じことのようにして考えていたかどうかはさておくにしても、ここで画工が、そして『草枕』全体が志向していたのは、読み手を楽しませるために必要だとされていた、意外な落ちや整った筋、紋切型な語り口といったような、「小説作法における一般常識」からの一時的な戦線離脱だったと仮定できる。
私たちはこの仮定から出発し、『文芸的な、あまりに文芸的な』芥川龍之介・1927)と『饒舌録』(谷崎潤一郎・1927)の間で交わされた一連のやり取りについて再考する。

要は平成不況で純文学が不景気んなってラノベとかメフィスト系が活況でしたみたいな話

当時の時代情勢を粗描するなら、1925年〜35年の日本の文芸環境は、プロレタリア文学の勃興と純文学の行き詰まりと大衆小説の黎明の時期にあったと要約できる。
出版業界の成長・肥大化により読み手と書き手が増加し、読者嗜好の細分化に応じて書籍が多量・多様化し、著作権・原稿料・もの書きたちのコミュニティの整備に伴って作家が富裕化していた頃だ。「十年批評するなかれ」(白井喬二)として、「講談」の書き直しから出発した「講談本」「新講談」「速記講談」「大正新落語」が、徐々に成長して「大衆文学」と呼ばれるようになり、社会主義思想の流行に伴ってさまざまな左翼団体が各地に結成されていた。フィルムに撮られた何枚もの画像をスクリーンに投射してみんなで観るあれが、「活動写真」から「映画」へと呼称が移り変わりながら一般へ普及していき、いくつもの同人誌、商業誌が生まれては消え、文芸業界が肥大する以前の慣習・作法が「文壇」の名の下に批判されていた。つまり、それまで重用されていた芸術の「場」と規則が成熟・老朽化し、次の「場」や規則の再構築が各所で試みられていた時期だ。
ちなみに言えば、ランボーボードレール、サント・ブーヴ、ヴァレリーなど、19世紀末に西欧で書かれた文芸作品・評論の輸入は行われていたが、この頃ヨーロッパで新たに起きつつあった文芸潮流は、まだまだ日本へは流入していなかった。この頃のヨーロッパの文芸状況は「モダニズム」という言葉で語られることが多い。さまざまな国のさまざまな作家たちが、それぞれ同時多発的に、これまでの文芸作品ではあまり取り上げられなかった題材や人物を話題にしたり、人物の意識の流れをなるべく省略せずにだらだら書こうとしたり、人物の内面をきめ細やかに書こうとしたり、常識や理性の向こう側にあるらしい夢や偶然や無意識をなんとかつかまえようとしたり、さまざまな文体をこまめに切り替えたり、焦点人物の頻繁な切り替えをしたり、小説をなるべく長く長く引き伸ばそうとしたり、粗筋に要約できないような書き方をしたり、顔写真や変わった書体の字や辞書に載ってない単語を挿入したりしていた頃だ。

1922 『ユリシーズ』(ジェイムズ・ジョイス
    ソヴィエト社会主義共和国連邦成立
1923 関東大震災
    「文藝春秋」創刊(菊池寛
    『愛に甦る日』(溝口健二
1924 『魔の山』(トーマス・マン
    「シュルレアリスム宣言」(アンドレ・ブルドン)
    『富士に立つ影』連載開始(〜1926)
    「文芸時代」(新感覚派同人)(〜)
    「文芸戦線」(プロレタリア文学派同人)(〜1934)
1925 『日輪』(衣笠定之助 横光利一原作)
1926 『城』(フランツ・カフカ
1927 『現代日本文学全集』刊行開始(改造社
    小説家協会設立(菊池寛
    『文壇ギルドの解体期』(大宅壮一
    『現代大衆文学全集』(平凡社
    『失われた時を求めて』(マルセル・プルースト
    『灯台へ』(ヴァージニア・ウルフ
1928 『歯車』(芥川龍之介
1929 全日本無産者芸術連盟(NAPF)結成
    『蟹工船』(小林多喜二
    「さまざまなる意匠」(小林秀雄
1930 『巨匠とマルガリータ』(ミハイル・ブルガーコフ
    「オール読物」創刊
1934 「猿面冠者」(太宰治
1935 芥川龍之介文学賞直木三十五文学賞創立

芥川・谷崎論争はほんとうに「論争」と呼べるようなものだったのか?

草枕』が発表された20年後、夏目漱石が没した10年後、芥川龍之介谷崎潤一郎は、お互いをあまり傷つけないように気を遣いながら、双方の文学観についていくつかのやり取りを交わしている。いまではそれが「筋のある小説、ない小説」として文学史家の語り草になっている。一読すればわかるように、二人の話はそもそもの初めから噛み合っていない。二人とも相手の論破よりも自説の補強、良作の紹介に紙面を多く割いているし、「論戦」を見物する読者の視線を気にするせいで踏み込んだことが言えていない。しかも二人は、表向きの言葉遣いは異にしているけれど、根底ではお互い同じことを考えている。二人とも自分が最近読んで面白かった小説のことを、自分の美学と語彙で語っているから、話がちぐはぐしているけれど、「優れた小説とはなにか、たとえばどれか」をどうにかわかりやすく言葉にしようとしているところに差はない。
ではなぜ二人の話が噛み合わないかと言えば、二人はお互い同じ話題をまるで違う方を向いて話しているからだと答えられる。喩えるなら、谷崎も芥川もお互い自分のTLやtwilogだけを見ながらtweetしていて、時々思い出したように相手へ@を飛ばすから、そもそも話題の共有なんて出来ておらず、お互いただ「いまどうしてる?」を長文で連投していただけだった、ということだ。二人はそもそも同じ土俵に立って同じ規則で競技出来ていないのだから、どちらが勝ったとか負けたとか言う話をしても意味がない。同じように、芥川が次々に列挙していく(小説、詩、俳句、戯曲)作品たちがほんとうに「話」らしい話のないものなのか、「詩的精神」のあるものなのかを吟味しても答えは出ない。谷崎が挙げている作品群にほんとうに「筋の面白さ」があるのかについても同じだ。
芥川が「話」らしい話のない話という言葉で問題にしているのは要するに散文性の濃淡で、谷崎が「筋の面白さ」という言葉で気にしているのは情報集積体ひとつひとつの小集合の紐付けの緊密さ・冗長さだろうが、そもそも二十一世紀に至って「筋のある小説とない小説のどちらが小説として優れているか」という問い自体が十分に機能しなくなっていることに私たちはもう無自覚なままではいられない。いまや「どちらが」小説に必要なのかと問われれば「どちらも」必要であり、「どちらも」必要がない。というよりも、この問いを書き手のスキルと読み手のリテラシーを念頭に置かずに語ることほど生産性のない議論はないとすら言えるだろう。1920年代に世界中で同時多発的に行われた無茶な文学的実験の成果を参照すれば、私たちには、すべてを隈なく読むこともすべてを漏れなく書くこともできないし、する必要がないのだということがそれとなくでも知れるはずだし、1950年代頃から世界中で同時多発的に行われたやんちゃな文学的反抗の成果を鳥瞰すれば、私たちには、絶対に読むべきものも絶対に書くべきこともないし、そこまでして読みたいわけでもないし書きたいわけでもないし、読ませたいわけでもないし書いてもらいたいわけでもないのだということがわかるはずなのだ。


退屈してきた人は、「芥川龍之介高橋源一郎」「谷崎潤一郎村上春樹」と読み換えるといいかも。(雑な置換だけど。)

それでもさしあたって確かめておいたほうがよいことがあるとすれば、それは、二人の関心領域のずれであり、二人が「筋の面白さ」「「話」らしい話」を口にさせたもののはなにか、だろう。そしてそれは従来のような「独自の文学観を持つ自立した個人同士の意見対立」という見方をしていては見つからないだろう。芥川が敏感に察しているように、1920年代後半は、文芸の「場」と規則が改定・更新されていく時期にあった。(「文芸的な、あまりに文芸的な」*1)たとえば「日本文学盛衰史―戦後文学篇」や「未明の闘争」を読んでいると、私たち*2は私たちが生まれる前に発生した文芸の「場」と規則がもう十分に行き詰っているように思えてしまうが、ここでは、1920年代を生きた彼らも私たちとよく似た行き詰まりを感じていたのだと仮定したい。その上で彼ら個人の心情や実感に立ち入ることはしない。そのため資料は揃っており、議論も尽くされていることにする。たとえば『「敗北」の文学』(宮本顕治)を読めばいい。
ここでは視野を変える。先取りして言えば、日本の文芸環境は、プロレタリア文学の勃興と純文学の行き詰まりと大衆小説の黎明の時期にあったという前提の上で、純文学が行き詰まりの打開策として視覚芸術への接近と離反を試みたのだと結論するつもりだ。

漱石センセイの時‐空間

そのためにまずは夏目漱石の試みについてもう一度確認しておこう。私たちは少し前に「小説作法における一般常識」からの一時的な戦線離脱だったと仮定した。この時代における「小説作法における一般常識」とは、一貫性と継続性と意外性のある話の流れのことだ。論理や連想に基づく因果関係が成り立つことだ。わかりやすく書けば、「あれがこうなったせいでこれがそうなって、それがそうなったらあれもそうなった」という筋書きを事後的に模造できることだ。
『文学テクスト入門』が述べているように、漱石は、それまで時間芸術として理解・消化されていた小説の領域に、空間芸術の方法を持ち込もうとした。というよりは、(次から次へと現れては消えていく動き)に抗って、(じっとしているとそこに見えてくるもの)の前に立ち止まろうとした。

連続する意識をめぐって時間と空間の関係を定義しなおそうとしていた漱石にとって、時間芸術としての文学と空間芸術としての絵画・彫刻を截然と切り分けてしまった『ラオコーン』の言説が疑わしいものとして見えたのも当然だった。「文芸の哲学的基礎」では、レッシングの定義から時間と空間が消去され、それにかわった「意識の推移」を理想とする文学と「意識の停留」を理想とする絵画という二文法が導入される。時間と空間の対立が人間の意識に還元されるとすれば、文学と絵画・彫刻とをへだてている境界も相対的なものにならざるをえない。漱石は推移の法則を文学の力学として、停留の状態を文学の素材として、それぞれ論じて行く可能性に触れているが、このプログラムはついに実現される機会がなかった。わずかに「絵画と同じく空間的に景物を配置」しようとした『草枕』の実験からその構想の片鱗を想像することができるだけである。(『文学テクスト入門』――第一章 読書のユートピア)


もちろん私たちはいまや、漱石にこう反論することができる。絵画の鑑賞の肝は作品を隈なく眺めようとする視点移動とそれに伴う時間の経過にもあるのであって、漱石の二分法は前提として間違っている、と。しかしその反論はこの文脈では有効に機能し得ない。そもそも二分法は話を切り出すとっかかりとして持ち込まれる会話術だ。その反論が前提としているのは、初めから終わりまで壊れない堅牢な仕切りとしての二分法であって、そんなものはいまやもうどこにもない。それはおそらく反論者の脳内仮想敵にしかない。漱石の実験の主眼は「厳格な二分法の定立」にはない。
話を戻すと、日露戦争前後に作家活動をしていた夏目漱石は明らかに、一貫性、継続性、意外性の頸木から小説を(より正しくは、自分が書くものを)、脱却させようとしていた。そのための手段が「話」にまとまる前の「場面」だけを書く(『一夜』)だったり、思考や視線の過剰な増量による物語の意識的な停滞だったり(『草枕』)、結末部での急な語りの飛躍(『坑夫』)だったり、論理や連想からの/への逃避と不安の吐露(『夢十夜』)だった、ということになる。詳細な分析は後に譲るが、おそらく夏目漱石は、当時の芸術家たちのなかでは例外的に高い実現能力でもって、同時代の「モダニスト」と呼ばれる書き手たちと同じ方向への探求を作品化していったのだろう。夏目漱石に至って、日本文学は、「内面」の発見(柄谷行人)からさらに先へ行き、時間と空間の対立の解消、論理と連想の因果関係からの離脱のために「意識」の活用を企図するようになったのだ。


「漱石の屍を越えてゆけ」

そして漱石の死後、当人たちの自覚はさておき、彼の野蛮な構想を引き継いだのが、芥川龍之介谷崎潤一郎志賀直哉だ。(もちろんこの記述は言い過ぎで、同時代の書き手たちは誰もが森鴎外に、夏目漱石に、二葉亭四迷に、正宗白鳥に、尾崎紅葉に、感化され、影響され、彼らが残した達成と、やり残した構想とを引き継ごうとしていた。不足分の考察は後に譲る。)
『卍』ではとりとめない語りが延々と続けられることで時・空間から逸脱したひたすらな情報集積体の展開とでも呼ぶべき物語の緊密な連続が実践されているし、『歯車』の語り手は論理や連想による因果関係に底知れない不気味さと不安を嫌って最後には死を願う(芥川は古典の下敷きがなければ『夢十夜』が書けなかった)。芥川は言葉にしあぐねて「詩的精神」と呼ぶことにしていたけれど、『焚火』には(『草枕』から苦吟と恋と風景と立ち止まりを引き算したあとの)一貫性と継続性と意外性のないロングカットのワンシーンが書かれている。読むことで読み手のなかに再生されるすらすらと流れていくひとつながりの時間が録音されている。
注目しておいたほうがいいのは、漱石の時点では読み手を配慮しながらでなければできなかった実験が、その十年後、芥川たちには、思考や感嘆、解説や補足などの冗長さをほぼ交えずに試行できるようになっていることだ。ここから私たちは、書き手の共同体が念頭に置いていた読み手の共同体のリテラシーは、然々の小説で用いられている方法や技術をチュートリアルなしでも理解できる程度には向上していたのだ、と推定できる。
現に、芥川龍之介はそう想定していたのだろう。芥川は、『文芸的な、あまりに文芸的な』の連載中、何度も読者の無理解を嘆き、誤解に苛立っている。芥川龍之介が語る「大衆文学」も「プロレタリア文学」も、芥川の語彙から導き出された来るべき理想的な文学のことしか語っておらず、「新感覚派」へ大きく肩入れする一方で、二派の現状への詳細な言及を避け、自分が属していた「場」の規則を確かめ直すように、これまで自分が読んできた作家、作品のことを、ほとんど自己完結なつぶやきとすら読めるほど閉じた言葉で書きとめている。
一方の谷崎潤一郎はと言えば、成長途上にあった「大衆文芸」の「場」から目ぼしい良作「大菩薩峠」を取り上げ、新しい海外小説「パルムの僧院」を紹介し、作りこみの足りない私小説を非難し、俗語・方言を自作に積極的に取り込むようになり、『文章読本』(1934年)を書き、当時はまだ低級な娯楽でしかないと見なされていた映画について言及するようになる。
ここで二人は、ある点では立場を同じくし、ある点では立場を異にしている。それが話の噛み合わなさの一因になっている。二人とも、次に書かれるべき「優れた小説」を待望し、いま目の前で書かれている「拙い・見るべきところのない小説」を嫌っているところは同じだ。二人が見ていた「場」も同じだ。 それでは何が異なるかと言えば、大きく分けると、二人が拾ったもの・捨てたもの、二人が辿った道筋、の二つだ。

簡潔にまとめると、

  1. 芥川龍之介はデビューから絶筆までに小説からさまざまなものを減らし、捨てていった。夏目漱石が捨てようとして捨てられなかった小説上のさまざまな規制・作法から、次々に脱退していった。たとえば(当時の)古典の借用、引用、模倣、教訓、物語、話型、構造、世界設定、虚構の人物たちへの心情仮託、俗語、曖昧さ、一貫性、継続性、意外性、意志、強さ。作品に即して語るなら、たとえば、彼のデビュー作『羅生門』は、説話物語の骨組を再構築して作られているが、これは言ってしまえば、「生きる(書く)」ために「遺体(古びて形骸化した言葉)」の再利用を恥じない老婆の姿を知り、若い男が「盗み(引用・借用)」をためらわなくなるという物語に他ならない。『羅生門』は、『草枕』と同じように、作品自体が書き手の製作姿勢の表明にもなっていたというわけだ。けれどもそんな芥川が最後に辿り着いたのは、たとえば一貫性と継続性を失った物語の小さな断片(西方の人)。沈黙へと向かいつつも絶えることのないつぶやき(「闇中問答」*3にあるように、芥川はM・ブランショが定式化した言葉と死をめぐる思考の核心に触れている。)。露骨に過ぎる自己言及(ポストモダンを通過した私たちからすれば、「文芸的な、あまりに文芸的な」は暗喩にすら頼らない過激な「小説についての小説」に読める)。芥川龍之介は、F・W・ニーチェやA・ショーペンハウアーを読みこなすなかで、「生きる(書く)」ことにはそもそも特に目的がないのだということを身に沁みるように直感し、その衝撃から立ち直りきれなかったのだろう。「芥川龍之介は純文学の行き詰まりを体現していた」という使い古された紋切り型は、おそらくこういった事態を指し示していたのと考えたい。そして芥川龍之介が鋭く直感していた「純文学の行き詰まり」をもっとも敏感に察し、重大なこととして受け止めたのが横光利一だった。
  1. 一方で谷崎潤一郎は、デビューからさまざまなものを常に貪欲に吸収しながら作家活動を続けていった。芥川が次々に捨てていった古典の借用、引用、模倣、教訓、物語、話型、構造、世界設定、虚構の人物たちへの心情仮託、俗語、曖昧さ、一貫性、継続性、意外性、意志、強さなどを、衒いなく拾い集めて膨張していった書き手だとしてよいだろう。肌や足への点的な注視から出発して、表記上のさまざまな遊びや試みをし、「お話」をでっち上げたり、表向きは言葉遣いの整いにこだわらなくなったり、人物同士の密な関わり合いを書き込んだりするための腕力を鍛え、「性」へ近づき、俗語や方言、「源氏物語」、当時の海外文学に言葉を借りながら、「話すように書く」を高い水準で実践し、大衆文学に近寄り、「文章読本」を書き、映画を見、論じ、脚本を書いた。菊池寛が「文学」から出発して、次第にその外へと活動の舞台を移していったことと並べて言うなら、谷崎潤一郎は、「文壇(狭く小さい玄人たちの集まり)」から出発しながら、新たに育ちつつあった「場」や規則を自作の懐へ引きずり込んでいくようにして、作品を仕上げていった。


といったところだ。対比的に語るなら、二人ともがより好い小説を捜し求めていたのだが、芥川は古びて狭まり力をなくしていく「場」に残り続けることを選び、谷崎は新しく生まれたばかりの未熟な「場」へと移り住むことを選んだ。このことについて「読書のユートピア」(前田愛)はあっさりと「芥川は志賀直哉の心境小説が達成した堅牢無比のリアリズムを意識しすぎていたし、谷崎は十九世紀ヨーロッパの大小説に発揮されている壮麗な構成力への信頼をいたって天真爛漫に語っていたわけであった」としているが、実際に二人がそれほど素朴に特定の小説作法を偏愛していたのかどうかはわからない。しかしひとつの可能性として、身振りとして特定の小説に「詩」や「美」と呼ばれるものを見出しているその裏で、二人が別の何かしらを、一方では待ち侘び、他方では怖れていたのかもしれないと仮定することはできる。そしてこの仮定は大きな意味を持つ。私たちはここに立って、二人の持論のやり取りの背後にあるより大きな動きに目を向けられる。

衣笠定之助といふ映画作家

急いで確認しよう。「文芸的な、あまりに文芸的な」が書かれた前後、衣笠定之助は「狂った一頁」(1926)「照る日くもる日」(同年)「十字路」(1928)といくもの先進的な試みに溢れた映画作品を相次いで制作していた。衣笠定之助は日本映画草創期に俳優としてキャリアを開始した映画監督だ。第一次世界大戦終戦後、欧米各国からの人材・作品・方法論の輸入によって、日本映画が芸術表現として自立していく時代を生きた。横光利一川端康成ら「新感覚派」に深い影響を受けながら、歌舞伎・新劇の録画上映から商業作品としての映画へ、女形から女優へ、時代劇から現代劇へと、映画の表現様式が変転する渦中で、小説の表現技法に刺激されながら、映画の表現技法の可能性を模索していた。私たちはここに積極的な意味を見出したい。夏目漱石が不完全な形で試み、芥川龍之介が徹底しようとした「物語の重圧」からの逸脱、逃走が、横光利一を経て、映画の「場」と規則のなかで結実したのだと考えたい。ジャネット・H・マレーが言うように*4、小説と映画の技術的進展が、より優れたフィクションを観客の心へ打ち込みたいという飽くなき欲求に支えられているのだとすれば、当時の「純文学の行き詰まり」は、新しい想像力・表現技法「映画」の成長を後押しする送風機関となり得ていたのではないか。大正時代の文芸作品たちは、「文学」という枠組みを大きく飛び越え、踏み越えたところで、世代交代をしていたのではないか。芥川と谷崎に噛み合わないやり取りをさせたのは、二人の(表面的な)文学観の違いではなく、日本文化の基幹が変動していくなかでの、静かな、しかし確かな「揺れ」だったのではないか。

だから、2010年代の文芸オタ・コミュニティも、しばらくは、新しい想像力・表現技法の成長を後押しする役割を担えばいいんじゃないのかな。

【参考文献】
草枕』(夏目漱石全集3 ちくま文庫 筑摩書房 1987)
『一夜』(夏目漱石全集3 ちくま文庫 筑摩書房 1987)
夢十夜』(夏目漱石全集10 ちくま文庫 筑摩書房 1988)
『坑夫』(夏目漱石全集4 ちくま文庫 筑摩書房 1988)
『饒舌録』(日本近代文学評論選(明治・大正篇) 岩波文庫 岩波書店 2003)
『卍』(卍 新潮文庫 新潮社 1951)
羅生門』(芥川龍之介全集1 ちくま文庫 筑摩書房 1986)
『文芸的な、あまりに文芸的な』(現代日本文学大系 43 芥川龍之介集 筑摩書房 1968)
『闇中問答』(現代日本文學大系 43 芥川龍之介集 筑摩書房 1968)
『或る阿呆の一生』(現代日本文學大系 43 芥川龍之介集 筑摩書房 1968)
『歯車』(河童・或阿呆の一生 新潮文庫 新潮社 初版発行日1968)
侏儒の言葉』(芥川龍之介全集 第十三巻 岩波書店 1996)
『文学テクスト入門』(文学テクスト入門 (ちくまライブラリー) 筑摩書房 1988)
『大衆文学論』(講談社 講談社学芸文庫 2001)
『デジタルストーリーテリング――電脳空間におけるナラティブの未来形』(国文社 2000)

*1:http://anotebookofsowhat.tumblr.com/post/946851190

*2:ここで言う「私たち」というのは、中上健次「十九歳の地図」庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」らが準備し、村上春樹風の歌を聴け高橋源一郎ジョン・レノンVS火星人」らが起動させた一連の「場」の変遷に親しんでいる人たちのことだ。彼らが提示し、島田雅彦山田詠美が弄び、吉本ばなな江國香織が遠ざけ、阿部和重アメリカの夜」が悪ふざけに使い、笙野頼子町田康が戦い、保坂和志「プレーン・ソング」が拒否し、平野啓一郎中原昌也が破壊した旧い「場」の規則から逃れて来た人たち。もっと言えば、たとえば綿矢りさが準備し、白岩玄が起動させ、舞城王太郎が育て、西尾維新が守り、東浩紀佐藤友哉が明示しようとしている新しい「場」に乗り換えようとしている人たち。

*3:http://anotebookofsowhat.tumblr.com/post/946839182

*4:http://anotebookofsowhat.tumblr.com/post/946832272