で?っていう備忘録

再開です。

「もっと評価されるべき」すべての文芸たちのために(1)

去年、「マイナー文学論」という講義に出ていたとき書いた文章を、今日から一章ずつ、公開していきます。ぜんぶで12章。今日は、前置きを。

1.前置き

これから僕はリービ英雄を読む。とはいえこれまで彼らがしてきたように、文芸評論の作法にきちんと則った読み方はできないと思う。きちんとした読み方。たとえば、一人の人が書いた小説たちをがっつりたっぷり使って、ほぼすべての小説に通低する共通の旋律をいくつか取り出すこと。細かな差異を削ぎ落として、その作家の言葉が特に偏って多く集まっている部分や、逆に特に偏って少ない部分を見つけること。そしてそれらを少し拡大して、きれいな言葉に包んで、読み手に提供すること。

豊富な資料と上手い語り口、ふさわしい話題が手に入れば、このやり方を用いて、非常に優れた文芸評論が書ける。江藤淳夏目漱石を語ったように、蓮實重彦がマクシム・デュ・カンを語ったように、加藤典洋村上春樹を語ったように、東浩紀庵野秀明を語ったように、伊藤整が「日本文壇」を語ったように、強い説得力と大きな読み応えのある、良質な文章芸を演じられる。
けれども本稿で僕は少し違うやり方をするつもりだ。理由はいくつかある。
まず、これまでの彼らと同じことを僕が工夫も反省もなく繰り返すのは、ちょっと「芸」がない気がしていること。だから自称も「僕」にしたし、語り口も多少カジュアルにしてある。
次に、これまで彼らがしてきた語り口は、僕がこれからリービ英雄を論じるのにはふさわしくないと考えていること。いまの僕がリービ英雄が書いている小説を語るのに、これまで使われてきたような語り口を使って、しっくりくるものが書けるとは思えない。
というのは、僕がリービ英雄を語ろうとした時、僕が語るのに見合った言葉遣いも、リービ英雄を語るのに適切な語り口も見つからない、ということだ。僕は1988年に日本で生まれた。今年で二十二歳になる。これまで彼らがしてきたすべての仕事にくらべれば、まだ何もしていない・何も知らないのと同じようなものだ。僕には武器になりそうな手持ちの言葉がまったく足りない。何も語れないと言ってもいいくらいだ。
もちろんこれまで彼らがしてきたやり方を否定するつもりはまったくない。文芸評論がとりもなおさず大勢の読み手を相手にした一種の「芸」であることを忘れて、作家への愛だけを意味不明な難しい言葉で大仰に叫ぶ文章は嫌いだけど、文芸評論の一般的な作法に則りつつも、読み手にも書き手にも親切で面白い文芸評論があることは知っている。
でもこうも考えている。僕の言葉づかいくらい僕に選ばせて欲しい。これまで数多くの人たちから惜しみなく褒められてきた、優れた文芸評論と比べれば、僕の言葉は何もかもが貧しく、弱く、不足している。僕は怖い。何も知らない・できない僕が彼らと同じ言葉遣いをするのは、率直に言って、すごくダサいことなのではないか。
それに、そんなものがもしあればの話だけれど、規格化された思考・記述様式に無自覚に従うことで、僕の僕なりの思考・記述様式が(他でもない僕の手で)抑え込まれてしまうのではないか。
もちろん、僕がきちんと文芸評論の作法や間合いや呼吸を覚えれば済む話だという反論も考えられる。これからリービ英雄を読むにあたって、僕はぼんやりした語りづらさ・言葉が喉に痞えたような感じを感じているのだけど、それはただ単に、知識の質・量不足と思考・記述の強度不足に起因するのだ、とも言える。そしてその批判はすごく正しい。ほとんど非の打ち所がない。僕には真正面からリービ英雄を語れない。
だから僕はリービ英雄を論ぜずして論じる。リービ英雄を語らないことで語る。これから僕はリービ英雄を読む。