で?っていう備忘録

再開です。

『ハザール辞典』ではひきこもり対策は成功しない。

その面白さをどうにかして語るつもりが、いまいちうまくいかなくて苦心しているうちに、いつの間にか話題が大きく逸れてしまって、話し手にも聞き手にもいま自分が何を話して/聞いているのかよくわからなくなる。本題を見失って、そもそもの目的も忘れられて、虚実の線引きも危うくなる。さっきの話題がこっちの話題に飛び火して、そっちの話があっちの話とつながって、その物語からあの物語やこの物語が次々と生まれては消えて行く。あそこではそういうことかと頷けたのに、ここではまたどういうことだと首を捻らされ、目の前でされる話に集中せねばと知りつつも、途中の細部がいちいち魅力的なものだから気が散って、あの頁からこの頁へと何度も行きつ戻りつして、なるべくいつまでも読み終わりたくないという気持ちの裏で、こんなにもうずうずさせられる本なんてさっさと片付けてしまいたいとすら思えてくる。


『ハザール辞典』(ミロラド・パヴィチ)はそういう本だった。仕組みと仕込みと企みと巧みとが正直言って詰め込み過ぎ気味の小説だった。


もちろん世間には似た趣向のものがいくつもある。紹介がてらいくつか書名を挙げると、たとえば小説なら『人生使用法』(ジョルジュ・ペレック)、『青白い炎』(ウラジーミル・ナボコフ)、『紙葉の家』(マーク・Z・ダニエレブスキー)、『舞踏会へ向かう三人の農夫』(リチャード・パワーズ)、『薔薇の名前』(ウンベルト・エーコ)、『ユリシーズ』(ジョルジュ・ペレック)、『アフリカの印象』(レーモン・ルーセル)、『魔の山』(トーマス・マン)、『ユリシーズ』(ジェイムズ・ジョイス)なんてそうだろう。


扱う題材が、大好きな古典の壮大な引用と模倣の集積体か、ひとつの時‐空間全体か、捏造された架空の世界か、実際の史実かはさておき、彼らの小説は、潔さや慎ましさからはかけ離れたところで、貪欲にも程があるだろうに、大量の言葉を費やして「何か」を何とか形にしようとしつこくこだわる。読み手がついて来れるかとか、お終いまで読んでくれるかとか、そんなのはお構いなしにだ。彼らの文学は、「書くこと」に全力で奉仕している。彼らは書く。なぜなら書きたいからだ。彼らは「書く」を生きている。彼らのそんな思いが、読み手の読みたいという熱意を呼び起こし高ぶらせ、頁をめくらせる。


ところで、小説を読み/書きする最中に人がよく気になることを簡潔にまとめると、「いつ・どこで・誰が・何を・誰に・どうやって・なぜ・どれくらい書いた/読んだのか、そうしてどうなったのか」と書ける。一般に、青二才は「なぜ」書く/読むのかばかりを気にし、俗物は「誰が」書いた/読んだのかばかりを気にし、「どうやって」が気になる人には夢が見れないし、「何を」にこだわるのは事実にがつがつしている何よりの証拠だ。


ぼくは事実にがつがつしている夢が見れない俗物的青二才だから、初めは『ハザール辞典[男性版]』も「誰が」「何を」「どうやって」「なせ」書いたのかばかり気にして読んだ。次には「いつ」「どこで」「誰に」「どれくらい」書いたのかを気にして読んだ。


こうなった。

「いつ」

本書の執筆は1984年。
政治史から言えば、ユーゴスラビア連邦人民共和国終生大統領ティトー(1892‐1980)の死後、ソ連崩壊以前、言わゆるユーゴスラビア紛争(1991‐2006)以前に書かれた。


文学史から言えば、『人生使用法』(1978年、フランス。ジョルジュ・ペレック)、『別れる理由』(1982年、日本。小島信夫)、『マイケル・K』(J・M・クッツェー)、『存在の耐えられない軽さ』(1984年、フランス。ミラン・クンデラ)、『舞踏会へ向かう三人の農夫』(1985年、アメリカ。リチャード・パワーズ)、『紙葉の家』(2000年、アメリカ。マーク・Z・ダニエレブスキー)といくつか著作を並べてみるとわかりやすい。詰め込み式に書かれた小説、小説についての小説、小説の形式を食い破る小説が世界中で盛んに書かれていた頃だ。


印刷産業史から見ると、ちょうどアメリカでMAchintoshが発売された年だ。「本を出版する」と言えば一枚の横にとても長い紙をくるくると丸めて筒状にしたあれを作ることではなく、手作業で切ったり貼ったり写したり綴じたりして作ることでもなく、画面上に表示されるデータを入力・出力するのでもなく、大きな機械で何枚も紙を束ねて厚い紙で挟んで綴じるあのやり方だった頃に書かれた。辞典と言えば枕になるほど分厚い大きな紙の束で、文中の関連語句にカーソルを当ててクリックするとその語のことが書かれたページへ飛ぶような仕組みはまだ生まれていなかった頃だ。

「どこで」

ユーゴスラビア連邦人民共和国は、スロベニアクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナ、ヴォイヴォディナ、セルビア、モンテネグロ、コソボ、ヴァルダル・マケドニアから成っていた。第二次世界大戦後、ナチスドイツの支配から独立し、冷戦下の中欧にあって、社会主義国でありながらソ連に与しない、社会主義非同盟運動の中心的存在だった。が、国家としてのまとまりは、指導者ヨシップ・ブロズ(通称ティトー)の歴史的に優れた統率力に大きく依存しており、彼の死後、構成各国には一党独裁へ反発する動きが生じていった。1990年代に入り、ソ連内部で行政改革が始まり、社会主義国家各国への抑えつけが弱まると、構成各国がさまざまな思惑から武器を用いた独立運動の推進・抑圧を行うようになり、たくさんの人の命が失われ、いくつかの人々の集まりが国家として独立した。

「誰が」

ミロラド・パヴィチ(1929-2009)は旧ユーゴスラビア共和国(現セルビア共和国)の首都ベオグラード出身の作家。文学史家として教鞭を取る傍ら小説、散文、詩、戯曲、翻訳もこなしていた。自作の読まれ方を強く意識し、さまざまな仕掛けや企みをいくつも巧みに織り込む作風。セルブ=クロアート=スロベーヌ王国がユーゴスラビア王国と改称した1929年に生まれ、第二次世界大戦を経験し、ユーゴスラビア連邦人民共和国大統領ティトーが推進した共産圏とも資本主義圏とも距離を取る自主管理主義的政策、ユーゴスラビア紛争、モンテネグロの分離独立に伴うセルビアが独立宣言(2006年)を見届けたが、EU加盟を目にすることなく没した。

「何を」

・ハザールについて。
・ハザール論争について。
・改宗について。
・イスラムについて。
・キリスト教について。
ユダヤ教について。
・遊牧民について。
・中欧盛衰史について。
バルカン半島史について。
・旧ユーゴスラビア共和国について。
・現セルビアについて。
・20世紀西欧型文学の志向と成果について。
・ミロラド・パヴィチについて。
・ハザール辞典について
・読むこと、書くことについて
・小説の読み方、書き方について

「どうやって」

 本書は3部構成で書かれた辞書のふりをした小説である。どこから読んでもいいし、どこまで読んでもいい。大小さまざまな挿話がぎっしり詰まっているから、つまみ読みしても楽しめるし、それぞれの挿話がいくつかの大きな物語として強く結びつくように書かれているから、通読しても、飽きずに楽しめる。「ダウプマンヌス編著による初版『ハザール辞典』(1691年出版、のち廃棄)」に最新資料を加えた再構成改訂版だ、ということにしてある。この設定を読み手と共有するために、本書にはさまざまな種類のさまざまな語り口の文章たちが編みこんである。いかにも二十世紀小説らしい多彩さでだ。


まず、目次、まえがき(成立の経緯・本書の構成・利用法についての軽い記述、初版から断片の抜粋)。続いてハザール問題に関する関連資料と題して、「赤色の書」(キリスト教関連資料)、「緑色の書」(イスラーム教関連資料)、「黄色の書」(ハザール問題に関するユダヤ教関連資料)の三つの本文が並べられている。それから付属文書として、『ハザール辞典』初版本の編集者テオクティスト・ニコルスキ神父による告解全文と、ムアヴィア・アブゥ・カピル博士殺害事件審理記録の抜粋(証人の宣誓証言を中心に)。本辞典の有用性についての結語、訳者あとがき、索引が収録されている。


それぞれの文章のつながりや関わりはとても入り組んでいて、本書の各項は、語り手や主役をめまぐるしく入れ替えながら、伝説上の話、生活上の話、小説上の話、歴史上の話、その注釈、補足、解説、横道に逸れた話、話の話、話の話の話、話にならない話、話されなかった話、さっきの話、これからする話、話さない、話したい、話が話された時の話、話が伝わっていくまでの話、話を残すための話、話がどうして残ったのかを話す話、などなどが次から次へと語られていく。


もちろん本書は小説だから、真偽の是非を執拗に問うても野暮だ、馬鹿正直に鵜呑みにしてはいけない。といっても、ここに書いてあることがすべてでたらめの大法螺だということではなくて、冗談半分に辞典の体裁を装わなければ書き得なかった何かしらが、書き手にはあったのだ、というくらいに受け取っておくのがよい。


歴史的事実を啓蒙するためだけの本でもなければ、何か政治上の企みを意図して書かれただけの本でもない。本書は、誰かがふだんの生活のなかで読みふけるべき本、夕食後に満腹しながら暇つぶしするための本、実生活に直接には役に立たない知識が大好きな人のための本、遊びと冗談が解るゆとりある大人のための本だ。たとえば本書の結語にある、二つの版に17行の差分があることを告げるこんな言葉も、


そこの聡明な目と物憂げな髪の愛らしき乙女よ――本辞典を読み進めつつ、恐怖に戦く重いして人恋しく覚えるなら、こうしてみてはいかがか。月初めの水曜日の正午、辞典を小脇に、町の大通りのお気に入りの喫茶店へと出かけたまえ。そこにはきっと、青年が待っているはずが。あなたと同様、この本に読みふけって時間を浪費し、孤独に打ちひしがれた若者が。顔を合せたら、コーヒーを注文してふたり仲よくテーブルを囲み、それぞれ手にした男性版と女性版とを見せ合うがよい。


「はいはい」なんて微笑して読み流せるような玄人向けに書かれている。(念のために筆者は、今月初めの水曜日の正午に、高田馬場駅前のお気に入りの喫茶店に出かけてみた。誰もいなかった。)


夢の狩人たち」というのは本書の文脈では「他人の夢を読みとり、その夢のなかに住み、夢のなかを駆けめぐって、指定された獲物――人、物、動物など――を追うことができた」ハザールの一宗派だ。ハザール論争の渦中で悪魔に近寄ったばっかりにいつまでも死ねなくなってしまった王女アテー。彼女の庇護の下、物語の舞台である9世紀のハザール、1689年のドナウ河畔、1982年のイスタンブールを、時空を越えて行き来し、他人の夢のなかに言葉や思考や品物を送り届けたりする人々だ。


けれども小説を読み/書きする現場での作法に即して言えば、彼らは『ハザール辞典』を読み進める読み手自身の射影であって、『ハザール辞典』を書くために深く広い物語の海を泳ぎまわった書き手の自画像でもある。他人の思考の痕跡としての書物を読みとり、そのなかに住み、そのなかを駆けめぐって、指定されたあれこれを追うことができる人々。


注意深く読めば、本書には他にも数々の「読み/書きをめぐる素材・話題」が放り込まれていることがわかる。「まえがき」はゲームで言うチュートリアル、本書をより楽しく読むための下拵えだし、語り手や登場人物たちははしばしで読む/書くことについての断言めいた思弁や発言を差し挟んでくるし、そもそも「辞書」や「聖書」やその「中味」、それを書くための「文字」をめぐる物語ばかりだ。小説が小説について過剰に雄弁に語る小説。その小説の読まれ方も書かれ方も、小説の解説も成立経緯もすべて何らかの形で書き込まれた小説。


本書は、いまは亡き遊牧民族ハザール人のことを主軸に据えて書いている。ハザール人は、カガンと呼ばれる君主をいただき、7世紀から10世紀、カスピ海黒海にはさまれる地方一帯に定住したといわれている。10世紀後半にルーシ(ロシアの古名)によって滅ぼされた。一時は周辺の遊牧民族国家と同様イスラームを受容していたが、730年に、なぜか、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教のなかから、ユダヤ教を選んで改宗した。外交戦略であるとか、王の気まぐれであるとか、ユダヤ教宣教師の腕前だとか、さまざまな説はあるが、真相はいまいちはっきりしていない。当時、ハザールは、南にイスラーム帝国、西に東ローマ帝国、東にルーシと大国の緩衝地域に国を構えていて、かなり空気を読まないと周囲とうまくやっていけない立場にあった。本書はそうした、表立ってはっきりしたことを言えなかった国の、書かれなかった事実、歴史のなかの空白に想いを馳せ、小説の言葉でもって、その隙間を丁寧に埋めている。ここで言う「小説の言葉」というのは、そこに書かれていることが世間の目からみて本当かどうかではなく、そこに書かれていることが読み手にとって面白いかどうかを大切にする人々のものだ。だから、

「なぜ」


という項目を用意してはおいたけど、もう答えは出ているように思う。
この小説は、どういうわけか小説を読む/書くのが好きで好きでたまらず、生半可な作り込みをした大抵の小説ではもう満足できなくなっちゃったんだけど、かといって他にまともな趣味も持てないし、話の合う友達も身近にいない、いつも自室で独り自慰でもするように、こそこそ本を開いて苦笑したりにやにやしたりしている人のために書かれている。

両版には内容の違う箇所がある。ドロタ・シュルツ博士の出した最後の手紙のうち、ゴシック体に組まれた短い部分だ。両版を比べ合えば、本書は合体して完全となる。そうすれば、おふたりにとって、もう本書は用なしだ。そのあとは、この事典の編集者を罵倒なさるがよろしい。ただし、叱責は手短に限る。なぜなら、そのあとで始まる出来事こそは、おふたりの問題であり、いかなる読書よりも価値あることなのだから。


『ハザール辞典』は自身を読む読者にこう推奨しているのだ。


読者はこの言葉を、反実仮想として読んでもいい。無邪気な語だと読んでもいい。笑顔で紳士に為される悪あがきだと読んでも、意地の悪い冗談だと読んでもいい。なぜならこれは小説だからだ。「言葉」や「国境」や「宗教」で限られた世界の外には「ほんとうの世界」があるのだと、真面目に信じられていた国の・時代の小説。1968年に「本当のことを云おうか/詩人のふりをしているが/私は詩人ではない」と谷川俊太郎が歌ったように、さまざまな政治的「正しさ」から一歩離れて、虚実の境界で大人に冗談を遊ぶために書かれた本。