で?っていう備忘録

再開です。

「もっと評価されるべき」すべての文芸たちのために(2)

2.前置き2

本題へ入る前に、「マイナーの文学」という言葉の曖昧さ、というよりは、定めがたさについて書きたい。ひとつの言葉の使い方にいちいち立ち止まるのはまどろっこしいことだし、本題を見失いやすいし、やり過ぎると苦しくなる。だからなるべくさっと書き終えるつもりだ。「マイナーの文学」。言い切ってしまえば収まりの効く扱いやすい言葉だけど、そもそも「マイナーの」「文学」とは何か? たとえばどれとどれか? という問いを立てると、よくわからなくなる。できるかぎりあっさり言い換えるなら、「マイナーの」「文学」というのはそれぞれこういうことで、

マイナーの【形】多くの人にはあまり話されない、知られない、伝わらないこと
文学【名・動】なるべく多くの人に伝わる言葉を使って何かを誰かに伝えること

だから、「マイナーの文学」というのは、「多くの人にはあまり話されない、知られない、伝わらないことを、なるべく多くの人に伝わる言葉を使って誰かに伝えること。その総称」ということになる。要するに、無謀な試みである。ジル・ドゥルーズカフカを評した言葉で補えば、「マイナーの文学はマイナーの言語による文学ではなく、少数民族が広く使われている言語を用いて創造する文学」のことで、そこで問題になるのは、「どのようにして、自分自身の言語の遊牧民・移民・ジプシーになるか」だ。
ちなみに補足しておくと、ドゥルーズの言う「少数民族」とか「遊牧民・移民・ジプシー」というのは、地理的・政治的な意味に限定して理解されてしまうことが多いけれど、実はもう少し含みがあって、彼の言う「少数民族」というのは「(時代的に、地域的に、言語的に、思想的に、文化的に、社会的に、政治的に、文学的に……etc)少数の人たち」の総称で、「遊牧民・移民・ジプシー」も、「(その時代、その地域、その言語、その思想、その文化、その社会、その国、その慣習……etc)からはぐれている人たち」のことまで含む。
肝心なことを概念化させずにわかりにくく語るドゥルーズの口調にもこういう誤解が生まれる原因があって、そもそもこの人は自著の積極的な読み替えを歓迎しているから自業自得なんだけど、彼は別の著作で別の人と一緒になってこんなことを言っている。

言語それ自体というものもなければ、言語活動の普遍性というものもなく、方言、俚語、隠語、特殊言語などの交錯があるだけなのだ。理想的な話し手‐聞き手というものがないのと同様、等質的な言語共同体というものもない。言語とは、ヴァインリッヒの言い方にしたがえば、「本質的に非等質的な現実」である。母〔国〕語というものはなく、一個の政治的多様体における一個の支配言語による権力奪取があるだけだ。言語は教区とか、司教区とか、首都などのまわりで固定化する。球根をなすのだ。それは河川の流域や鉄道にそって、茎や地下流となって進み、油の斑点となって移動する。
『ミル・プラトー』(ジル・ドゥルーズ&フィリップス・ガタリ)


彼は、そもそも、○○語という枠組みすら固定されたものとして考えてはいないのだ。彼にとっては、或る時、或る場所で、或る人たちが、或る話題をやり取りするための、或る程度は通じる言葉があるだけだ。或る言葉がその時代・地域によって、多くの人に話され、力を持ち、支配的になることはあっても、それはしばらく限りのことだ。たとえば英語と総称される言語は千年前にはフランス語よりも話者数からして「マイナー」だったけれど、いまではフランス語よりもずっとメジャーな言語だ。『資本論』は40年くらい前の日本の早稲田大学ではまだ「メジャー」な著作だったけれど、いまの日本の早稲田大学では『涼宮ハルヒの憂鬱』のほうが「メジャー」だ。
『マイナー文学論』(陣野俊史)でも語られていたように、ドゥルーズの言う「マイナーの文学」というのは、単に少数派の小説のことではない。『マイナー文学論』は日本の文学部の大学生に向けて行われていた。話題を日本とその周辺に限定して、「日本語や日本語文学の語彙・枠組みを使いながらも、そこには収まりきらないような小説を書く外国人のような存在」について特集しようとしていた。
正しい姿勢だと思う。「マイナーの文学」という言葉は、あまりにも普遍的で抽象的なせいで、具体的に個別のことを考える時にはほとんど何の役にも立たない。
たとえばフランツ・カフカ。生前無名だったが、他でもなくその著作の「マイナー性」を理由に、多くの人に読まれ、知られ、話されるようになった作家。ドイツ語で書いたチェコのユダヤ人の作家。ジョルジュ・ペレックミラン・クンデラやガブリエル・ガルシア・マルケス村上春樹小島信夫保坂和志モーリス・ブランショやジル・ドルゥーズが共感と賞賛の意を隠さなかった《有名な作家》。
たとえば宮澤賢治。生前無名だったが、他でもなくその著作の「無名性」を理由に、いまや多くの日本人に読まれ、知られ、話されるようになった作家。日本語で書いた日本語の日本人の作家。横光利一伊藤整天沢退二郎入沢康夫高橋源一郎が共感と賞賛の意を隠さなかった《有名な作家》。
彼らはほんとうに、小さくて・孤独で・共同体からはぐれた作家なのか? と僕は問う。
たとえばジュール・ベルヌ。彼の名を冠した文学賞が後に設立されるほど、十九世紀後半のフランスで多くの子供たちに読まれ、知られ、話されていた作家。フランス語で書いたフランスのフランス語の作家。低俗で子供向けのくだらない小説ばかり書いていると誤解され、日本ではあまり読まれなくなった《有名な作家》。
たとえば森鴎外。明治20から30年代にかけて、「紅露逍鴎」なんて四字成句ができるほど多くの小説好きに読まれ、知られ、話されていた作家。日本語で書いた日本の日本語の作家。たとえば伊坂幸太郎宮部みゆき石田衣良と較べると、いまではもうあまり読まれなくなった《有名な作家》。
彼らはほんとうに、大きくて・常に話題の渦中にいて・共同体の中心にいた作家なのか? と僕は問う。
この二つの問いは大き過ぎて僕には手におえないけど、こうやって問うことで、「マイナーの文学」について語る時、僕たちが忘れがちで大切なことがいくつかあることに気づく。
僕たちは「マイナーの文学」をいつでも・どこでも(普遍的に)、いつも・いつまでも(永久に)「マイナーの文学」であるとして語りがちなのだ。考えるべきことは「いつの、どこの、誰にとっての」「マイナーの文学」かであって、「あの日あの時 あの場所で 君に」とっての「マイナーの文学」なのに、だ。
もっと言えば、潜在的にはすべての「文学」が「マイナー」たりえるし、「メジャー」たりえる。その「文学」の「置き場所」さえちょっと変えてやれば。
鈴木志郎康は詩壇においては「メジャー」だが映像芸術界では「マイナー」で『あたし彼女』は「野いちご」では「マイナー」だが文壇では「メジャー」で『バカとテストと召還獣』はライトノベル界隈では「メジャー」だが米国詩壇では「マイナー」で『心ふさがれて』はフランスの一部の文学界では「メジャー」だが日本では「マイナー」で『クォンタム・ファミリーズ』は思想地図派(という呼称がわかりにくければ東浩紀氏周辺)では「メジャー」だが『新潮』では「マイナー」、『皇国の守護者』は架空戦記業界では「マイナー」だが日本文献学業界業界でも「マイナー」。『法印珍誉集』はそんな日本文献学業界でもかなり「マイナー」。そういうすべての話題は音楽界や映画界や政治界では「マイナー」で、『日本文学盛衰史 ――戦後文学篇 第三回』(高橋源一郎)のなかでは内田裕也(かなり年をとったロック・ミュージシャン)は「メジャー」中の「メジャー」な「日本戦後文学」。
だから僕は、ある小説をことさらに「マイナーの文学」と呼ぶことに自覚的でありたい。「マイナーの文学」を論じる時、僕がそれをどんなに丁寧な手つきで、きれいな言葉に包んで、読み手に提供したとしても、それは紛れもなく政治行為(広義の)であって、経済活動(広義の)であることを忘れないようにしたい。「マイナーの文学」という呼称が一種の宣伝文句であることを隠さないようにしたい。そうしないと、「純文学」に過剰に卑屈になって、「ケータイ小説」に過剰に傲慢になるある領域の小説好きたちのような倒錯に陥りかねない。「文学」を語る時に、「大衆小説」や「時代小説」や「ミステリ」や「SF」や「短歌」や「現代詩」や「文芸評論」をあからさまに無視するある領域の小説家たちのような視野狭窄に陥りかねない。フランツ・カフカをあからさまに「マイナーの文学」と名づけざるを得なかったジル・ドルゥーズの矛盾を許容したい。