で?っていう備忘録

再開です。

「もっと評価されるべき」すべての文芸たちのために(12)

12.僕と、リービ英雄

さて、そろそろいいだろう。準備は整った。

これから僕はリービ英雄を読む。

この評論の一行目に書いた通りだ。つまり僕はまだ一冊もリービ英雄を読んでいないということだ。

これから僕はリービ英雄を読む。

そのために7つの武器を揃えておいた。リービ英雄の小説は「ちゃんと伝える」/「わざと伝えない」ために書かれているだろう。僕はリービ英雄の小説を「読んでも読まなくてもどちらでもいい」を脱するために読むだろう。リービ英雄の小説は「ほんとうのこと、正しいこと、真っ当なこと」かどうかなんて「面白ければどうでもいい」と思わせてくれるだろう。リービ英雄の小説は自分の言葉をすら見知らぬ外国語のようにして扱うし、自分の経験をすら見知らぬ外国人の話のように語るだろう。僕はリービ英雄の小説に書かれている「問題になりそうな箇所」をさっと読み流すだろう。代わりに僕が読み取りたいのは、この本に書かれている不安、緊張、迷い、焦り、恥じらい、それから「ショック!」。リービ英雄の小説は、書くことですべてをわけへだてなく愛し、生かし、殺そうとするだろう。僕はリービ英雄の小説がなぜそんなことをしなければならなくなったのか考えながら読むだろう。

これから僕はリービ英雄を読む。

こう言い換えてもいい。これから僕は「僕がまだ読んだことのないすべての小説」を読む。読むためのリストならこんなふうにいくらでも増やせる。読むためのツールならこんなふうにいくらでも増やせる。あとは読むだけだ。こういう終わり方はやっぱりずるいだろうか。僕はこれまでリービ英雄を一行も語らずに、小説一般の読み方のなかからいくつかを摘出して並べ、方法論の輪郭が立ち現れてきたところで筆を止め、そのまま放置している。評論の機能・目的・役割とはそもそもなんだろうなんて不細工な問いをいまさらのように発することもできるけど、こうして或る小説家のいくつかの著作について語るということは、とりもなおさず、その小説の読み方を限定することであり、開示することでもあるはずだ。今回の僕の論考はリービ英雄の読み方をまったく限定・指示・披露してはいないけれど、多少なりとも、リービ英雄の読み方を開示・解放・準備できたのだと思いたい。

これから僕はリービ英雄を読む。

だから小説の本文に寄り添った読みを禁じた。小説家の経歴・来歴に近寄った語りを避けた。

これから僕はリービ英雄を読む。

だけじゃなくて、僕と同じようにまだ一冊もリービ英雄を読んでいない人にも読んで欲しい。この論考を読んでリービ英雄を読む・読み直す人が一人でもいれば僕の勝ちだけど、そのための文章として読まれるためには、そもそも宛て先も使用言語も書法の初期設定も間違っていたのかもしれない。こんな風に著作目録を引き写してはみたけれど、

【リービ英雄の著作目録】

『星条旗の聞こえない部屋』『日本語の勝利』『天安門』『新宿の万葉集』『アイデンティティーズ』『国民のうた』『最後の国境への旅』『ヘンリーたけしレウィツキーの夏の紀行』『日本語を書く部屋』『我的中国』『英語で読む万葉集』『千々にくだけて』『越境の声』『延安――革命聖地への旅』『仮の水』


リービ英雄は「いつの、どこの、誰にとっての」「マイナーの文学」なんだろう?