で?っていう備忘録

再開です。

半世紀後にはもう読まれなくなってしまうかもしれない城山三郎の「輸出」をめぐって(1)

前置き

本稿は2010年春頃に書かれました。必修演習の課題作文へ宛てたものです。
「言わゆる「戦後日本文学」から小説家を一人取り上げて自由に論じなさい」という主旨の課題でした。
大衆小説家として存命中に多くの読者に愛された人の宿命なのか、学術論文の世界では、まとまった城山三郎研究がまだほとんどありません。文庫解説や評伝がぽつぽつ出ているくらいです。何かしらの足しになればと公開することにしました。
というのは建前で、ぼくが城山三郎を扱うことにした直接のきっかけは他にあります。それは要するに、
「文学の場で、先端技術の革新性を評価するのと同じように、一般普及用製品を評価すると、どうなるか」
という問題意識です。一般に大衆小説とかエンタメと呼ばれる作品群が、学術の世界ではどちらかと言えば取り上げられにくい現状にあるのはなぜかも、気にしながら書くつもりでした。
だから、あまり思い入れのない(というか読んだことのない)作家を扱うことにしました。ぼくは城山三郎のあまりよい読者ではありません。なれそうにもありませんでした。『粗にして野だが卑ではない』を夢中で一気読みしたくらいです。城山三郎への愛着は、きっと、「たまには本でも読んでみよう」という思いで月に数冊、軽口の小説を読む人たちと同じくらいです。
そんな人が、城山三郎の処女作「輸出」とその周辺に話題を絞って書いた論考です。学生の試論にありがちですが、型通りの整理をしているわりに、論展開に肝心の説得力がありません。半信半疑でご笑覧ください。参考文献は後述します。

ここで言う「戦後」

「輸出」について語る前に「55年〜65年」を大雑把に語っておこう。一般に「50年代的」として語られるさまざまな出来事・時代潮流が起き・準備されたのがこの十年間で、「輸出」はそんなさまざまな「場」における「50年代的」な空気に大きく依拠しながら書かれているからだ。
だから本稿では、とりあえず45年〜55年に限ってを「戦後」と呼ぶことにする。急いで素描するなら、新憲法が制定され、米国の援助と抑制の下、旧くて重たい価値観・制度・組織・思想が至るところで解体され、転向させられていた時期。さまざまな海外文化・娯楽の受容が解禁され、内実の伴わない流行語のように「民主主義」「自由主義」が唱えられていた。
小説史に属しつつ語るとすれば、「戦争から帰ってきた大人たち」が、語るべきもののとてつもない巨大さと、語り得る言葉のどうしようもないみすぼらしさとのずれに愕然としながらも、それでも語るべきものにふさわしい語りを手にしようと、曖昧で雑な言葉づかいを厳しく律したり、不確かな記憶や感情を掬い取るために惜しむことなく言葉を費やしたり、言葉にしてはならないもの、言葉にした途端に大切なことが失われてしまうものに向き合おうとしていた頃だ。

「旅は歩みおわった所から始めねばならぬ。墓と手を結んだ生誕の事を書かねばならぬ。何故に人間はかく在らねばならぬのか?……ああ、名を呼べぬ者達よ、此の放浪をお前に捧げよう。」(安部公房『終わりし道の標べに』48年)


 その一方で、「正しさ」をめぐる喧騒に倦み、「純粋さ」を目指すことの窮屈を嫌がり、「あの戦争」に当たり前のようにこだわることを疑い、「見なかったこと」にしようとする老人たちに憤る人、「もうそろそろ忘れよう」とする人もいた。

「志賀の意見の出どころが、そんなにまちがったもので無いことはわかった。意見そのものも、まちがっていたとは思えない。特攻隊くずれであろうと何であろうとゴロツキやドロボウは悪い。それはそれでよい。やりきれないのは、それを言う態度の薄っぺらさだ。それを『暗夜行路』の作者がやってのけていることだ。ぜんたい、この間の戦争をふくめての此の十年二十年を、その中でチャンと日本人として――その権利と義務を行使して――つまり、ホントにナマミで生きて来た人間が、どこを押せば、その十年二十年(自分自身をも含めて)の所産である特攻隊くずれを、あのように手ばなしに一方的に非難できるのか?[……]あなたの胸の中に痛むものは無いのか?(そして私には、そのような痛みが彼の文章の中に感じられなかった)もし無いならば、あなたは、この十年間を「生き」てはいなかったのだ。『暗夜行路』の作家は、いつの間にか、偶然の特等席に引退してしまっていたのだ。」(三好十郎『恐怖の季節』50年)

「日本の文学の考え方は可能性よりも、まず限界の中での深さということを尊び、権威への服従を誠実と考え、一行の嘘も眼の中にはいった煤のように思い、すべてお茶漬趣味である。[……]私はただ今後書いて行くだろう小説の可能性に関しては、一行の虚構も毛嫌いする日本の伝統的小説とはっきり訣別する必要があると思うのだ。」(織田作之助『可能性の文学』50年)


いずれにせよ、「40年代的」な空気は、文学の領域に限れば、(1)戦争が終わってしまったこと、(2)「旧きよき日本、そして父」が死んでしまったこと、(3)「これからの日本」の再起動をしなければならなかったこと、をめぐる一連のお喋りたちによって生み出されていた、と言えるだろう。そして、困ったことに、この前提に立つと、従来の「文学史観」は、本来であればその場で使い捨てられるべきだった急拵えのものだった、縮尺も小さ過ぎる、解像度もむやみに高過ぎる、ガラパゴス的でオーバースペックなものだったと言えてしまう。
1900年代〜20年代に生まれた書き手たちを「戦後派」と呼び、いまひとつはっきりしない基準で2区切りにし、第二次中間小説流行期に頭角を現し始めた書き手たちを「第三の新人」と呼ぶ従来の見方は、その時その時の新人たちが文壇で頭角を現し始めた時期を切り口にしているから、くくりとして抜け・漏れが多過ぎる。中村真一郎(1918年生まれ)が第一次戦後派で、福永武彦(1918年生まれ)や堀田善衛(1918年生まれ)は第二次戦後派で、小沼丹(1918年生まれ)は第三の新人だとくくるのは、「萩原朔太郎(1886年生まれ)は詩人で、石川啄木(1886年生まれ)は歌人で、牧野信一(1886年生まれ)は小説家だ」と言うのと同じで、目につきやすいスタイルの差で分類しているだけで、いまやそれではもう何も示していないのと変わらなくなってしまうのかもしれない。
こうした見方は、消費期限が短く、流通領域に限られた文芸時評では有効だったのかもしれないが、平成に生まれ育った若い読者たちが、日本の戦後の文学60年を振り返るためには、網の目が小さすぎるのかもしれない。

「50年代的なもの」

話を戻して、「50年代的」なるものを語るとすればこう言える。海の向こうで戦争が始まり(朝鮮戦争赤狩り中東戦争)、解体・転向させられた経済・文化・政治・若者の心の空白に、海外資本・娯楽・政争が大量に注入され(ドル本位制、テレビと野球と自動車、冷戦と水爆)、その勢いに押されるようにして育った経済・文化・政治・若者の心が少しずつ元気を取り戻していった頃。さまざまな領域がそれぞれの「貧しさ」から脱け出つつあった。
小説史に属しつつ語るとすれば、「戦争に行ってきた大人」が円熟し、「戦争を知っている大人」が足元を固め、「反抗せよ!「いま・ここ」をぼくらの手に!」が声を挙げ出した時期らしい。検閲の廃止、出版業界の再興、中間層の所得増加に後押しされて、さまざまなサブジャンルに特化した小説雑誌が次々と生まれ、小説新人賞創設が相次いだ。時代小説が成熟し、推理小説が社会化・大衆化し、日本SFが産声をあげ、「大衆小説」が自身の歴史を語れるまでに成熟した。純文学は「戦争」から遠く離れて、「生活」に忍び寄る不安に怯えながら、若者たちの「私」の思いと叫びと呻りに耳を傾け始めた。
書き手たちはさまざまなジャンル(小説・映画・演劇・短歌・散文詩・漫画)やサブジャンル(ミステリ・SF・歴史・青春・生活・恋愛・サスペンス・ホラー・ファンタジー)を横断しながら、「ぼくらが語るべきものを語るためにぴったりな言葉」を探していた。「戦後」に十年かけて施行されてきた「語るための言葉」の再構築・再設計がおおむねひと段落し、その上で「私だけの戦いの記憶」を「どう語るべきか」が模索されていた。私見では、この時期に精力的に行われた「40年代的な空気」の清算は、第二次大戦を青年期に経験した二人の作品に代表させられる。
乱暴な要約だが、三島由紀夫金閣寺』(1957)は特攻精神の挫折を経て惨めに生を欲望する物語だし、遠藤周作『海と毒薬』(1958)は報国のための殺人の記憶に苛まれる男の物語で、二作は図らずも「40年代的な心性」を書き尽くしてしまっている。
2作に代表される、「40年代的な心性」を「終わらせる」ための物語が書かれるのと同時に、下の世代たちによって「新しい着こなし」が試されるようになる。
たとえば庄野潤三は「外し」を、石原慎太郎はカジュアル・ダウンを、大江健三郎は移植を、山田風太郎筒井康隆は開拓をしたのだと言える。「着こなし」の「王道」や「正解」がすっかり共有されて、そこからの「踏み外し」「はみ出し」が目指されていた頃だったのだろう。「着こなし」の「踏み外し」は石原慎太郎太陽の季節』(1955)に始まり、野坂昭如『エロ事師』(1963)に終わる。
いずれにせよ、「50年代的」な空気は、1)「戦後」の終わり、2)若い「私の物語」の成長と拡大、3)「戦後」の乗り越えと踏み外し、をめぐる一連のお喋りたちによって立ち上がっていたのだと整理できる。

城山三郎の「輸出」

城山三郎はそうした乗り越え・踏み外しの季節に登場する。「輸出」の文学史上の評価をさくっと要約すればこうなるだろう。「もはや戦後ではない」と宣言され、「戦後」の乗り越えと踏み外しが、高度経済成長が始まりつつあった頃、いち早く商取引に「戦争」を、企業にこき使われるサラリーマンに「兵士」を見出して、多少の粗さはあるものの、読むのに困らないくらいには詳しく整った無難な言葉で、アメリカ在住の商社マンたちの孤独と憂鬱と疲弊を書いた一篇。
第3回に本文を抜粋するが、石原慎太郎太陽の季節』のもがきに比べれば「輸出」の「着こなし」はまだ「戦後」のモードのままで、一文一文から歪みと軋みが聞こえる大江健三郎『奇妙な仕事』(1956)と比べれば、使い慣れ・使い古された小説作法でアメリカを描いている。外来語を得意げに濫用したり、会話に気取った言い回しがちょいちょい挿入されるあたり、たとえば村上春樹風の歌を聴け』(1979)を先取りしているとはいえ、結局のところ「新しい題材をいままで通りの方法で料理してみた一篇」だという理解が妥当なのだろう。
込み入った考察は追って行うけれど、城山三郎全著作の軌跡を辿ることは本稿の手に余る。文献の消化も追いついていない。だからここではひとまず、当時の社会情勢、文芸界の潮流などを概観した上で、城山三郎「輸出」が「欠いて」いるものについて考察する。

著者略歴

1927年(昭和02)愛知県名古屋市中区にて生まれる。
1945年(昭和20)現名古屋工業大学に入学。理工系学生のため徴兵猶予になったが、
大日本帝国海軍に志願入隊。特攻隊伏龍部隊へ配属。訓練中に終戦。
1946年(昭和21)現一橋大学東京産業大学)に予科入学。19歳
1947年(昭和22)本名「杉浦英一」で詩作を始める。「時間」「零度」等へ寄稿。20歳。
1952年(昭和27)大学卒業。現愛知教育大学商業科助手に就任。25歳
1957年(昭和32)「輸出」第4回文學界新人賞30歳。
1958年(昭和33)『総会屋錦城』第40回直木三十五賞(下半期)31歳。
1963年(昭和38)「硫黄島に死す」第25回文藝春秋読者賞。36歳。この頃専業作家に。
1974年(昭和48)『落日燃ゆ』第28回毎日出版文化賞[文学・芸術部門]45歳。
1975年(昭和49)『落日燃ゆ』第9回吉川英治文学賞46歳。
1981年(昭和57)第33回NHK放送文化賞(1981)52歳。
1980-1年(昭和56-57)城山三郎全集刊行(新潮社)。全14巻。
1998-9年(昭和63-平成1)城山三郎伝記文学選(岩波書店)。全6巻。60歳。
1991年(平成03)「本田宗一郎は泣いている」第53回文藝春秋読者賞(1991)63歳。
1995年(平成07)『もう、きみには頼まない――石坂泰三の世界』第44回菊池寛賞67歳。
2003年(平成10)朝日賞。「経済小説の分野を確立、組織と人間を描いてきた業績」75歳。
2005年(平成17)「城山三郎 昭和の戦争文学」シリーズ刊行。全6巻。77歳。
2007年(平成19)間質性肺炎にて死去。79歳。

【「輸出」掲載誌】
・『文學界』(1957年7月号)(本稿で参照)
・『総会屋錦城』(1959年8月・文藝春秋新社)
・『総会屋錦城』(1963年11月・新潮文庫)
・『黄金峡・輸出』(1967年・東都書房)
・『堂々たる打算』(1975年・日本経済新聞社)
・『城山三郎全集 第3巻 毎日が日曜日・輸出』(1980年4月・新潮社)
・『経済小説名作選』(1980年7月)
・『昭和文学全集29』(1988年2月・小学館)
・『総会屋錦城』(1990年1月・新潮社)(本稿で参照)

※「輸出」については、「題材が新しい」「書き方が古臭い」「描写が雑」「巧過ぎる」「筆の荒れが不安」「中間小説じゃね?」といった選評。選考委員は、武田泰淳井上靖伊藤整平野謙吉田健一(掲載順)。