で?っていう備忘録

再開です。

不定期開催、書きかけの卒論を晒す会(1)

久しぶりの更新です。
卒業論文を、6章立て12万字相当と計画していますが無理そうです。
ちゃんと数えなおしたらまだ6万字にしかなっとらん。
城山三郎論は、余力があれば、製本するときのおまけに使いたい。
これからケータイ小説論へさしかかります。
以下、書きかけの卒論からの引用。


『書籍販売市場における上位タイトルの売上分析』(井庭崇ら)によれば、日本全国の書籍の販売冊数‐順位は、年間、月間ともにべき乗分布となり、上位1.5%のタイトルが市場全体の約50%を占めている。また、上位タイトルのなかでも、上位にあればあるほど、ますます売れるようになっている。

こうした現象について井庭らは、販売店や取り扱う銘柄に起因するのではなく、市場レベルでの「創発的秩序」だと述べている。彼らの分析は、個別作の性質には触れていないから、これは本稿のやっかみのようなものだが、それでは文芸書棚で売られている小説のうち、上位1.5%のタイトルが「ふつう」で、残りの約99%は「ふつうではない」のだろうか。

そうではないだろう。この仮説に異を唱えるのはあまりにも容易く、論じるまでもないと考えられるから、ここでは、その通りだ、「ふつう」の小説は、上位1.5%にランクインするものだけで、残りのすべては「満たない」小説なのだ、市場に流通する意味も、長らく保存する価値もないのだ、と言い切ってしまおう。

 おそらくこの仮定はそれなりに有用だ。いつ・どこで売れた本かの設定をこまめに調節し――明治期から今日までの日本か、20世紀の日本か、2011年の日本か――上位1.5%に分布する小説群が、例えばどれかそれかを点検してやれば、自ずと「ふつう」の到達水準が評価できる。他方で、限られた短いあいだ、狭いところにいる人にしか求められず、早晩忘れ去られていくにちがいない「満たない」小説を、わざわざ品質評価の俎上に上げる必要もなくなるから、文学研究の精度と効率は格段に上がるはずだ。

 言い添えておくと、こうした試みは、実はもう、既存なのかもしれない。私たちはこう推測できるだろう。いままで、超上位層だけに市場を寡占させる仕組みは、歴史的必然とか時間の淘汰などと評されていた。文芸の「場」である作品が生産・消費・破棄される一連の流れのなかで、自浄と呼んでさしつかえない頻度と精度で、すでに十分に機能していた。

だからこれからも、わざわざ統計処理をするまでもなく、勘と経験に頼った人力の仕分け作業だけ行なっていればそれでいい。食品や、工業製品とは異なり、文芸作品は、品質評価の大部分がオープンソース化され、娯楽化され、美化さえされているから、選り分けの機械化は、文芸市場の縮小と均質化につながりかねない。縮めて言えば、選り分けの機械化は、一方で傑作ばかりが集積される退屈な博物資料室を生み出し、他方でその場限りで消えていく、書き手と読み手の相互交流だけが盛んな散発的祝祭を同時多発させる。

(中略)

話を戻して整理しておくと、私たちはいま、「ふつう」を有用に定義することで、現代日本における「ふつうの読者」の最頻値を探りながら、彼らに着実に行き渡る「ふつうの小説」とは、たとえばどれかを考えようとしている。

そのためには、最頻層のリテラシーの程度を知り、最頻層に流行りやすい商品の作られ方を知っているほうが望ましい。ある期間内の売上で上位1.5%に属するタイトルを消費しているのが「ふつう」の読者だ。彼らが気に入らなかったものはすべて「満たない」小説だから取り上げるに値しない。彼らの「ふつう」の欲望やリテラシーはひとつの多様としてあって、彼らの欲望の列挙・分類・体系化・階層化は、市場に流通する銘柄の多さが実践として達成している。

ということは、「本の書き方・読み方を書き尽くすにはどうすればいいか」=「すべての書かれている言葉の前に/後に動作する諸法則を一冊にまとめようとする試みを、どうやって共同体内に実装するか」=「ある共同体内で何かを流行らせるにはどうすればいいか」=「その共同体はどれだけの種類の何を好むことが多いか」は、銘柄の多様性が市場に実現されている限り、そもそも考察に値しない。そのときに求められるのは観察であり、列挙であり、確認であって、もっとも有益で実用的な文学研究とは、およそ手に入るすべての商品の諸情報が一覧化されたデータベースを作ることで、不確かで欠けの多い断片から、全体を推し量ることではない。

それでは何かと考えてみると、私たちが本稿で試みようとしているのは、「衰退と縮小が避けられなくなったとき、誰から殺すか」というとかっこつけすぎだが、すべての商品銘柄を最全面に等価に並べて置くことができなくなったある日に、どの銘柄から順に店頭から消すか、その選択の目安作りだ、ということなのだろうか。これまで、個々の商品内容の詳細な解釈になるべくのめり込まないよう気を付けながら、「古典」を作り出し、流通させ、長らく残していくための大原則を整理してきたが、この試みは、不用品の廃棄と、骨董品の保存のためのマニュアル作りだったのか。