で?っていう備忘録

再開です。

「もっと評価されるべき」すべての文芸たちのための(6)

6.金城一紀と、リービ英雄


4.にはこう書いておいた。「金城一紀は「insider」として日本語で小説を書くが、リービ英雄は「outsider」として日本語で小説を書く。」別に逆でもかまわない。「リービ英雄は「insider」として日本語で小説を書くが、金城一紀は「outsider」として日本語で小説を書く。」そしてこの「別に逆でもかまわない」という所へ向けて、彼らの言葉は注ぎ込まれていて、そのとき彼らの言葉は、悲しいくらい歪な形に軋んでしまうか、反対に悲しいくらい整ったのっぺらぼうな形に均されてしまう。「二人は「insider」として日本語で小説を書く。二人は「outsider」として日本語で小説を書く。」
『GO』(金城一紀)は「《在日》をめぐるいざこざ」のなかで暮らす「僕」が「青春」する小説だ。『GO』(金城一紀)がこれまでどう読まれてきたかを一文で言うとこうなる。この理解はとても正しい。その正しさを以下に示す。方法は次の通り。まず、この一文に含まれる各項(括弧で閉じられている部分)を解凍・展開する。そしてその結果をすべて一文で記述する。



鄯:「《在日》をめぐるいざこざ」のなかで暮らす「僕」

在日朝鮮人総聯合会と在日本大韓民国民団という、《在日朝鮮人》や《在日韓国人》にとって「新興宗教の教団みたいな組織」があって、時々揉めているのだが、そんな『総連』の活動員で熱心なマルクス主義者で元プロ・ボクサーで、ハワイ(アメリカ)へ旅行するという名目で息子のために《在日朝鮮人》から《在日韓国人》へ「移籍」する「オヤジ」に「説明しがたい感情」を抱いていて、「朝鮮席を持つ両親の子供に生まれ」、「気がついたら朝鮮席を持つ《在日朝鮮人》で、物心ついた頃からハワイを『堕落した資本主義の象徴』として教えられ、背表紙にマルクスとかレーニンとかトロッキーとかチェ・ゲバラなんて名前が記された本に囲まれて育ち、」民族学校で教わった「朝鮮語と朝鮮の歴史と、北朝鮮の伝説的な指導者、《偉大なる首領様》金日成のことと、あとは日本学校でも教わるような日本語(国語)、数学、物理、などなど」を「なんかおかしい」と思いながらも、それが当たり前のこととして受け入れていた」けど高校生になってそれに気づき、1970年代アメリカ文学や、1960年代フランス映画、1960年代アメリカの音楽、明治末期から大正末期の日本文学(ここだけ他の趣味より古い)、1920年代ヨーロッパの絵画が好きで、《日本》や《日本人》や《在日朝鮮人》や《在日韓国人》や《外国人》という言い方のルーツにすごくこだわって、いろいろ「お勉強」をして、ミトコンドリアDNAや『外国人登録証明書』や《日本》という国号の由来や『黄色人種』や『単一民族神話』や「お酒が飲めない日本人」の起源に詳しくなった「僕」。



鄱:「僕」が「青春」する。

「僕」は、無受験で進学できる高校ではなく別の高校へ進学する、自分の素性や来歴を隠す、登下校をする、授業を受ける、歴史や政治について「お勉強」をする、学生服を脱いだり着たりする、アルバイトをする、同級生と喧嘩をする、肝試しをする、物を壊す、規則を破る、煙草を吸う、酒を飲む、先輩を尊敬する、先輩の不遇を嘆く、友達と喫茶店で話す、好きな本や映画や音楽の話をする、現状不満を愚痴る、くだらない話題をやり取りする、焼肉屋に行く、大人の女性に会う、旅行先の話をする、大人を嫌う、親を嫌う、故郷や家から出ようとする、女の子と喫茶店で話す、二人で町を歩く、キスする、映画館や美術館へ行く、好きな本や映画や音楽の話をする、現状不満を愚痴る、お互いの昔話をする、その子の家でその子の家族と夕飯をご馳走になる、音楽を聴く、映画を見る、本を読む、撮られている場面・流れてくる歌詞・書かれている言葉に感動する、友人の死を知る、告別式へ行く、女の子と性交する、隠していたことを話す、そのことについて話し合う、喧嘩になる、警官を殴る、警官に中学時代の体育教師について喋る、家に帰る、受験勉強する、親の昔話を聴く、親に口答えする、親と喧嘩する、記念日の夜に女の子と二人で話す、いままでの鬱憤を大声で吐き出す、これまで以上に仲良くなる。



以上のように、『GO』(金城一紀)は「《在日》をめぐるいざこざ」のなかで暮らす「僕」が「青春」する小説である。よってここからは『GO』(金城一紀)は「《在日》をめぐるいざこざ」のなかで暮らす「僕」が「青春」する「小説」である。」を妥当性が証明済みの定理として扱う。そして以降からこの定理の任意の各項を省略、分割、交換、削除する。



(1) 鄯、鄱を省略する。「『GO』(金城一紀)は「《在日》をめぐるいざこざ」のなかで暮らす「僕」が「青春」する小説だ。」『GO』は一文に要約できる。

(2) 定理を分割する。〈「《在日》をめぐるいざこざ」のなかで暮らす「僕」〉を(A)とし、〈「僕」が「青春」する〉を(B)とする。(A)は「在日文学」になり、(B)は「青春小説」になる。定理は分割可能である。

(3) (A)の《在日》を《受験》や《学生運動》や《池袋西口公園》や《愛と死》や《ロックンロール》や《匿名掲示板》や《予備校の屋上での自慰》や《自転車》や《へヴィ・メタルバンド》と交換する。『インストール』や『いちご同盟』や『池袋ウェストゲートパーク』や『愛と死』や『青春デンデケデケデケ』や『電車男』や『青空チェリー』や『走ル、』や『NANA』に変わる。《在日》は交換可能である。
(B)の「青春」を「苦悩」や「自殺」や「失恋」や「挫折」や「成長」や「反省」や「告白」や「結婚」や「殺人」や「回想」や「考察」や「悲嘆」や「狂ったふり」や「お喋り」に交換する。『新世紀――エヴァンゲリオン』や『或る阿呆の一生』や『狂言の神』や『ノルウェイの森』や『平凡』や『涼宮ハルヒの憂鬱』や『告白』や『告白』や『秋刀魚の味』や『黒死舘殺人事件』や『僕は思い出す』や『不滅』や『世界の中心で愛を叫ぶ』や『ジョン・レノンVS火星人』や『カンバセイション・ピース』に変わる。「青春」は交換可能である。「僕」は任意の固有名詞や人称代名詞に交換可能である。

(4) 交換可能な要素を削除する。命題は、〈「《何か》をめぐるいざこざ」のなかで暮らす《誰か》が《何か》する小説〉となる。


以上のように、定理の各要素は任意に省略、分割、交換、削除可能である。
同じように、定理の各要素は任意に付け足し、統合、固定、追加可能である。
だから、『GO』(金城一紀)の各要素は、操作者の任意で自由に操作可能であると結論できる。「読書」にまつわる用語で言い換えれば、『GO』に書かれているすべての言葉は、読み手が好きなように読んだり読まなかったりできる。つまり、『GO』(金城一紀)を非の打ち所もないくらいに正しく読もうとすると、別に『GO』(金城一紀)なんて読んでも読まなくてもよくなってしまうということだ。
『GO』(金城一紀)はこれまで「《在日》をめぐるいざこざ」のなかで暮らす「僕」が「青春」する小説だ。」と読まれてきた。つまり、読んでも読まなくてもどちらでもいい小説として読まれてきた。これを一般化するとこうなる。


あなたが読もうとしているその小説は、読んでも読まなくてもどちらでもいい。


この理解はとても正しい。非の打ち所もない。
二人は「insider」として日本語で小説を書く。その小説は読んでも読まなくてもどちらでもいい。
二人は「outsider」として日本語で小説を書く。その小説は読んでも読まなくてもどちらでもいい。
さて僕はこの「とても正しい。非の打ち所もない」理解を殴り倒さなくてはいけない。異議申し立てしなくてはいけない。その力が僕にないのなら、僕はこの理解を無視しなくてはいけない。忘れなくてはいけない。その理由はおそらく「その小説に対してとても失礼だから」だと要約できるだろう。