で?っていう備忘録

再開です。

「もっと評価されるべき」すべての文芸たちのために(5)

5.阿部和重と、リービ英雄

(A)「んだがら先生も気の毒でねえ。かなり喧(やがま)しぐ言わっでるみだいで、滅法カリカリしておられましたわ。大変ですわ、ああいう親戚付ぎ合いは。先生のどこほどじゃねえっすけど、うぢも似たようなごどあっから、よく判りますよ。邪魔くさぐなるどぢあっからね。繁芳さんも気の毒ですよ。んでも田宮さんちでは、そういうごどはないし、跡取りも一人前だ。博徳くんは嫁さんば貰ってかれこれ二年ぐらい経しますか。しかしあの人は垢抜げっだ、綺麗な嫁さんだわ。嫁さ来たばっかりの頃ど全然変わらんもんねえ。あれは、一人目は、まだなんだが? そろそろだべね。二番目は婿さ行って、女の子二人だっけずね? 兄貴さも頑張ってもらって、立派な世継ぎば、生してもらわねどねえ」
シンセミア』(阿部和重

(B)「べっちょしてっか?」『シンセミア』(阿部和重

(C)「ポポラ」とは、地元JAが三年前から営業をはじめた、農産物や飲食品、手芸・工芸品などの販売をおこなう直売所のことだ。ちょっとしたスーパーなみの売り場面積を有するその施設は、会員登録すると所定の見世棚を与えられて、思い思いの品を自由な値段で売ることができる。安価な良品の購入は早い者勝ちだから、常に朝から繁盛しているらしい。菖蒲家はそこに、花弁や果実などの園芸作物のほかに、鶏卵やハチミツなどの食材、さらにはドライハーブ、ポプリ、アロマオイル、フラワーレメディー、パワーストーンといったヒーリング関連の品々を出荷しているのだという。六年前から世捨て人きどりの出不精になっていたわたしは、当然ながらポポラには行ったことがないため、菖蒲家が商品を出しているとは知らなかった。うちの妻はしばしばポポラで買い物をしているようだが、彼女からも聞いたことはなかったのだ。『ピストルズ』(阿部和重

(D)そんな反応に接することには、菖蒲そらみは慣れっこになっているらしかった。彼女はきりっとした笑顔でおちつきながら、わたしのつぎの言動に備えていた。ゆるく波うつ赤毛のロングヘアーが、風で顔にかかるのを右手ではらいのける彼女のしぐさもまた、凛とした印象をもたらすものだった。切れ長の目によく通った鼻筋と、薄い唇ながらもおおきめの口が、卵型の輪郭の中にきれいにおさまっている様はしずやかで、沈着な性格も窺えた。単なる紋切り型の先入観と承知で述べれば、菖蒲そらみはいかにも、いちばん上のおねえさんという雰囲気の人だった。『ピストルズ』(阿部和重

(E)「いいかおまえたち、おれの返答はこうだよ――そら見たことかとな。そんなことでは、おまえたちみんな、とち狂った幽霊にあっさりとりつかれちまうぞ――このおれみたいにだ。おれの忠告を真剣に受けとめないからそうなる。それこそが、迷信を信じ込ませるための手なんだということを、おまえたちはきちんと頭に叩き込んでおかなければならない。つまりは戯言でしかないつくり事の中に、情に訴えるエピソードをさりげなくまぎれこませて、聞き手に同情を誘って油断させながら、最終的には真実味がある話だと勘違いさせてしまうような詐欺師の手口と、仕組みとしては一緒なんだよ――おまえたちをひっかけたものはな。そうなることを端っから見こして、わが家の伝統とやらをめぐる一連のストーリーは、入念に仕上げられているんだ――ひとりの誇大妄想狂によってな。おまえたちはいま、その誇大妄想狂の妄執にとりこまれる、一歩手前の状態というわけだ。いいか、よく聞けよ。一見つながりのゆるそうな、ばらばらに語られたあまたの事柄が、たまたまひとつの事実を証拠立てたかのごとく感じられたからといって、そのまんま鵜呑みにするんじゃないぞ――なぜならそれは全部が全部、ひとりの人間が考え出した策略の一部だからだよ。真実と虚構がまだらにからまりあってひとつになり、この家の伝統が構成されているってわけじゃないぞ――そうではなくて、まるごとすべてがひとりの人間がでっちあげた、出鱈目にすぎないんだ。みんなそれを忘れるな。しかしこうなると、おまえたちにまであれこれうちあけたのは、やっぱり失敗だったのかもしれないな。こんなにもたやすく、おまえたちさえもが誇大妄想狂の一員になりかけてしまっては、すぐさま幽霊が息を吹きかえしてきて、迷信が生きながらえかねない――そんなことになっちまったら、まさにクソジジイの思う壺だ。だがおまえたちにまで術をかけることは、おれとしては避けたかった。かといって、わけも話さず術もかけずに、おまえたちには内緒でみずきに修行をさせていたら、おそらくもっとまずいことになってしまっていただろう――おれが修行させられていたときとは、時代状況もだいぶ変わっちまってるしな。だからほかには、選択肢はなかったわけなんだが――おれがやり方をまちがったのか、あるいはこれも、あの悪霊の筋書き通りということなのか……」『ピストルズ』(阿部和重


阿部和重の小説から五つの断片を引用してみた。一つめは「方言」で会話をする人の発言。二つめは「方言」で書かれた「(近頃あなたは)性交をしているか?」という問い。三つめは「標準語」というか、わかりにくい言い方や省略をなるべく廃して、地元のスーパーについて説明した文章。四つ目は「菖蒲そらみ」が「いかにもいちばん上のおねえさんという雰囲気の人」であることをなるべくわかりやすく説明するのに失敗している文章。五つめは「標準語(?)」で会話(?)をする人の台詞(?)だ。
阿部和重は、わざとらしいくらい陳腐で凡庸な紋切り型が大好きな小説家だ。旬の話題を斬新な切り口で見事に物語にするのではなく、「旬の話題(笑)」を「斬新な切り口(笑)」で「見事(笑)」に「物語(笑)」にする書き手と言って伝わるだろうか。自分が使う言葉や題材や手法や思考が「ありふれている」「妄想に過ぎない」ことにやたらと執着する書き手と言えば伝わるだろうか。「自分にしか書けないことを自分だけの言葉で書こうとする」のではなく、「誰にでも書けることを誰にでも使える言葉で書こうとする」せいで、阿部和重はいつも「阿部和重にしか書けない阿部和重の言葉を書いてしまう」と言い換えるべきか。阿部和重はいつもなるべく正確で・過不足のない・論理的な話し方をしようとするのだが、しようとし過ぎて、何を言っているのか当人にもよくわからなくなる「自分勝手な思い込みと自己弁護・自己説明に終始するパラノイアの主人公を見事に作り出している」(池澤夏樹芥川賞選評)と言えばいいか。
阿部和重はそういう小説家だ。
阿部和重は大きく分けて二つの「言語」をかなり明確に使い分けている。「ちゃんと伝える」書き方と、「わざと伝えない」書き方。明治五年から二十年にかけて、軍事命令や初等教育を「ちゃんと伝える」ために江戸地方の「方言」を研磨・精製して作られたのが「標準語」だとするなら、阿部和重は、「方言」と「標準語」の二つをまずはっきり書き分けておきながら、最後にはその区分けを丸ごとひっくり返す。
そこが面白い。
とはいえ「方言」といっても単に、日本国内の或る地域だけで限定的に話されている独特の語彙や発音や抑揚のある言語だけではない。或る地方特有の言葉や情景がたくさん書かれているというだけでは、小説は面白くならない。大切なのは、どこの国の言葉で書かれているかだけではなくて、「ちゃんと伝える」つもりで書かれているかどうかだ。小説に「方言」を持ち込むことを推奨・実践する書き手は多いが、彼らの狙いは大別して二つある。多種多彩な言語の博物館を小説内に建造することと、標準的で・お行儀の良い・平板で・退屈で・凡庸な小説を回避し、小説に書かれている言葉を、聴き慣れない外国語のような存在にすること。前者は小説に面白さを付加するために行われ、後者は小説からつまらなさを取り消すために行われる。阿部和重の小説を「ちゃんと伝える」/「わざと伝えない」という区分で仕分けると、よくわかる。
(C)と(D)は「ちゃんと伝える」言葉で書かれている。この文章には憎しみや偏見や怒りも込められていない。愛着も陶酔も情熱も抱いていない。ありていに言えば、「感情」がこもっていない。わかりやすい。何を書こうとしているか一読してすぐにわかる。なぜか。ありふれた言葉をありきたりに集めて作られているからだ。この文章には「感情」も「情緒」も「個性」もない。「意味深なほのめかし」も「謎」もない。薄くて浅い記述だ。だから、「感情」や「情緒」や「個性」や「意味深なほのめかし」や「謎」ばかり書いてある小説に飽きた人が読むと、とても面白い。胸が空く思いがする。笑ってしまう。「ちゃんと伝える」をちょっとやり過ぎなくらい徹底している。そのせいで(D)なんて、「菖蒲そらみ」がどういう人なのかぜんぜん伝わってこない。かえって「標準語」(=「ちゃんと伝える」言葉)が或る狭い地方にだけしか通じない「方言」であるかのように読めてくる。
(A)や(E)と比べるとよくわかる。こちらは「わざと伝えない」言葉で書かれている。(A)を読んでみる。話題があっちこっちに飛んで要領を得ない。「先生」の話をしていたと思ったらいつの間にか「繁芳」の話をしているはずだったのに「博徳」の「嫁さん」と子供の話になっている。「田宮さんち」のことを気にかけてくれていることだけはわかるけど、けっきょくのところ何が言いたいのかよくわからない。(E)を読んでみる。「おれ」は自分の考えがきちんとまとまってないのに話し始めてしまっている。「おれ」が「おまえたち」に「気をつけろ! 騙されるな! すべてはでたらめだ!」ということを言おうとしていることはわかるけど、具体的に何をどうすればいいかがぜんぜん伝わってこない。「おまえたち」というのが「菖蒲一家」を指しているのか、『ピストルズ』の読者のことを指しているのか、小説を書きつつある阿部和重を指しているのかもわからない。「わざと伝えない」をちょっとやり過ぎなくらい徹底している。かえって、「気をつけろ! 騙されるな! すべてはでたらめだ!」がものすごい威力で伝わってくる。その時「方言」(=「わざと伝えない」言葉)が何かを「ちゃんと伝える」ための「標準語」であるかのように聞こえてくる。「つまりは戯言でしかないつくり事の中に、情に訴えるエピソードをさりげなくまぎれこませて、聞き手に同情を誘って油断させながら、最終的には真実味がある話だと勘違いさせてしまうような」小説に飽きた人のための「標準語」。ほんとうに「ちゃんと伝える」ために「わざと伝えない」を戦略的に選ぶ書き手/読み手たちのための「標準語」。