で?っていう備忘録

再開です。

「もっと評価されるべき」すべての文芸たちのために(7)

7.笙野頼子と、リービ英雄


彼は、日本で「私小説」と言うと、「自伝的小説」とか「書き手がほんとうに経験したことだけを包み隠さず告白する小説」とか「実際の書き手によく似た境遇や考え方の「彼」や「私」が出て来る小説」とか「書き手の経験が小説のなかに織り込まれている小説」とか「小説のリアリティを現実にいる書き手の存在でもって担保する小説」とか、いろいろなふうに言われてきたと思う。
その男は、田山花袋がどうとか、島崎藤村がどうとか、太宰治がどうとか、大江健三郎がどうとか、佐伯一麦がどうとか、車谷長吉が私小説家を廃業したとか、昔は盛んに話題になっていたようだと思う。青年は、けど読みたいのは「私小説」ではなくて「面白い小説」で、「読んで好かったと思える小説」だと思う。
若者は、「私小説」かどうかは、ある小説を「売る/買う」時には少し気になるけど、その小説を「書く/読む」時には、全然気にならない。彼は、そもそも書き手の「私」が一滴も混入していない小説を書くのは無理だろうし、もし出来ても面白くないから、そんなことを気にしても仕方がないと思う。男性は、ほんとうに見聞きしたこと、考えたこと、知っていることだけしか書かない/読まないのは、無理だと思う。その人は、「私小説」を批判する人は「私小説は書き手の「赤裸々な告白」とか身辺雑記ばかりだ」とよく言うけど、その言葉の裏には「私小説は書き手の「赤裸々な告白」とか身辺雑記ばかりで(つまらない)」という気持ちがあるんだろうと思う。
その人は、一冊の小説の「私率」の濃淡を気にしてばかりいたら、詩なんて読めないし、短歌や俳句はそもそも一首・一句の意味が決定できないと思う。
語り手は、「小説は嘘とかきれいごとばかりだから読みたくない」という人の言葉の裏には「小説は嘘とかきれいごとばかりで(騙されてる気がする、むなしくなる)から読みたくない」という気持ちがあるんだろうと思う。
筆者は、一冊の小説の「嘘っぽさ」を気にしてばかりいたら、映画やテレビドラマなんて見れないし、漫画なんて、1頁たりとも読んでられなくなるだろうと思う。
著者は思う。「リアルなものはあらずや?」と呟かずに済むのなら、読み手は「私小説」かどうかを気にしてもいい。自分が言葉に出来るぎりぎりの線を、奥へ、奥へと推し進めていかないといけないから、書き手はその「支え」として「私小説」の枠組みを借りてもいい。多少の誤解は覚悟の上で、そのほうがより多くの人に届くと判断してであれば、売り手は「私小説」という枠組みを作って小説を売ってもいい。余計な誤解や警戒を生むだけだから「私小説」という枠組みなんてなくてもいいと思うけどそれでも必要な人がいるなら好きなだけ使えばいいと思う。
執筆者は、自分がいまこうしてこう言えるのは、二葉亭四迷夏目漱石芥川龍之介志賀直哉太宰治小島信夫丸谷才一大江健三郎藤枝静男色川武大車谷長吉村上春樹高橋源一郎笙野頼子保坂和志佐藤友哉東浩紀、といった人たちがこれまで闘って来たからだと思う。誰と? 別に「敵」がいるわけじゃない。「誤解」を解くためだ。小説を読んでいると、というか、生きていると、「つまらない、騙されてる気がする、むなしくなる」人たちの「誤解」。
とある物書きは、自分にとって、笙野頼子は、「ほんとうのこと、正しいこと、真っ当なこと」かどうかなんて「面白ければどうでもいい」と思わせてくれた小説家だったと思う。
ある男は、笙野頼子は「書き手がほんとうに経験した「嘘、でたらめ、妄想、偏見、悪口」を包み隠さず告白する」小説家だったと思う。
ある人は、自分が読んだのは、『二百回忌』、『母の発達』、『にごりのてんまつ『母の発達』濁音編』、『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』だったと思う。