で?っていう備忘録

再開です。

「「「「空気」の読み方」の読み方」の読み方の[……]」の読み方 『冗談』(ミラン・クンデラ)をめぐって(前篇)

まえおき

以下は、先月末に講義で提出したレポートを元に書かれています。
パラグラフの順序を変えたり、語尾をちょっと丁寧にしたりしています。
話題の中心は、その「場」の空気を徹底的に読まなければならない「場」で発せられた言葉をどう読むか、ということにあるようです。
ミラン・クンデラを未読の方への配慮がまったく見られない、不親切なハイコンテクスト設計になっています。
話題自体も少し古いようです。

まずは、「ミラン・クンデラ」を粗描する

ラテン語から派生するすべての言語では「同情」という語は接頭辞のcom-(「同‐」を意味する)と、もともと「受難」を意味するpassionという語から形成されている。他の言語、例えばチェコ語、ポーランド語、ドイツ語、スウェーデン語ではこの語は同じ意味を持つ接頭辞と、「感情」を意味する語との結合によって訳される(チェコ語 sou-cit、ポーランド語 wsp 〓 〓-czucie、ドイツ語Mit-gef 〓 hl、スウェーデン語 med-k〓nsla)。
ラテン語から派生する言語では「同情」という語 compassion の意味は、他人の苦難を冷たい心で見てはいられない、苦しんでいる人の気持ちに加わる、ということを意味する。だいたい同じような意味を持っている、フランス語の piti〓(英語の pity、イタリア語の piet〓ど)には苦しんでいる人への寛大さというようなものがあらわれる。avoir de la piti〓 opur une femme の意味するところは、女より、われわれのほうがいい立場にいるので、われわれが頭を垂れて、そこまで下りていくということである。
これがほぼ同じ「同情」という意味を持つ compassion なり piti〓 という語が不信をおこさせる理由で、愛とはあまり共通のものを持たない、悪い二流の感情を指し示しているように思わせる。同情から誰かを愛するというのはその人を本心から愛していないことを意味する。
『存在の耐えられない軽さ』(ミラン・クンデラ


以前、別のところでこんな文章を書いたことがあります。


「チェコの片田舎で生まれ育ったミラン・クンデラが書く言葉は、ぶっきらぼうなくらい簡潔だ。彼の言葉は無駄な感傷で「おめかし」していない。彼は詩情を嫌う。人の目を曇らせると言う。濃ゆい詩情や分厚い寓意に満ち溢れた言葉を巧みに操る書き手の対極にいる。彼は「悲しい」を「悲しい」としか書かない。「説明しがたい愛情」は「説明しがたい愛情」としか書かない。それで済むのだし、それ以上は余計だという言葉遣い。彼の小説の語り手は「問い」を放置したまま思い悩むことはしない(「人を黙らせようとするとき、声を高くするのは正しいことであろうか? そのとおりだ。」)。答えられることには手短に答え、答えられない「問い」を未練がましくいじくったりもしない(「この問いは次のように定式化することもできよう。大声でどなり、自分の終末を早めるのがいいのか? それとも黙って、ゆっくり死にいたるほうがいいのか?/この問いに対してそもそも答えが存在するのであろうか?」)。
クンデラは嘘と皮肉と冗談に絡めて優しく愛と哀しみを描く。そんなクンデラに「二つの言語」はなく、あるのはいつも「いくつもの(少し使いづらい)言語」だ。クンデラは「言語」の使いづらさ、役に立たなさをよく知っている。言葉で伝えられることと、伝えられないことの線引きをきちんとしている。だからクンデラは使える言葉、役に立つ言葉、他の人にもきちんと伝わる言葉だけを使い、考え、書く。クンデラは自分の言葉をすら見知らぬ外国語のようにして扱うし、自分の経験をすら見知らぬ外国人の話のように語る。クンデラは「うまく言葉にできないこと」に悩まない。それはもうしかたのないことなのだという潔さがある。クンデラには外国語がない代わりに母語もない。外国がない代わりに母国もない。」



この記述はおそらく、これまでにミラン・クンデラが書き、理解ある訳者たちに邦訳された数冊の本のことを、そこそこ言い当てているのでしょう。
この「そこそこ」というのが肝心で、私が書いた文章は、ミラン・クンデラについてすべてを言い尽くしているのでもなければ、何も言っていないのでもありません。私は私が読んだいくつかのミラン・クンデラについて語っている。
それはそれで別に悪いことではないのですが、その時の記述には必ず偏り・抜け・漏れが生まれてしまうもので、たとえば私が書いた文章には、母語以外の言葉で執筆活動をすることへの注目はあるけれども、二十世紀中盤のチェコでの政治情勢への視点がなかった。どう書くかへの注意はあるのに、何を書くかへの関心がなかった。これから私は『冗談』(ミラン・クンデラ)のことを書くつもりでいます。ここではだからまた少し別のところに注目してみたい。


『冗談』は「社会主義」(笑)と言っているのか?


『冗談』を読んだあとに、私(1988年生まれ)が、「社会主義」のことを冷笑するのはたやすい。私は「社会主義」のことをほとんど何も知らない。
ひらがなを多用した散文詩のような口調で言えば、

わたしのものは、みんなのもの
みんなのものは、みんなのもの
みんなではたらいて
みんながしあわせになれる
そんなくにをみんなでつくろう


といったような考え方を、もっとずっと詳しく厳密に理論化したものだ、ということくらいはわかるけど、共産党体制下のチェコで生まれ・育ったある若い男が、じっさいにどんなことを考え、話し、しようとしていたかは、まるで知らなかった。
ミラン・クンデラが書く「社会主義を信奉していた学生・兵役時代の知人たち」は、誰もが健全で、生真面目で、勤勉で、忠誠心に富み、正義感に満ち溢れている。彼らは「私」が恋人宛てにちょっとした冗談のつもりで書いた「健全さと「社会主義」を嘲笑する言葉」を、まるでとても危ない爆弾のように取り上げ、大騒ぎをし、その言葉を書きつけた「私」を、党委員会に「悪い考え」を持っている人として通告する。「私」は学業を失い、兵役猶予の特権をも失って、二度の勤労奉仕を経たあと、召集される。そうして、「人生におけるすべての大事な過程が断ち切られてしま」う。勉学も、革命運動への参加も、仕事も、友人との交流も、愛も、愛を捜し求めることもできなくなる。
「私」を不運な境遇へ追いやった彼らの立ち居振る舞いは、「私」の控えめな語り口で画一的・平面的に戯画化されている。要は、キャラ化されている。「私」の恋人「マルケータ」に至っては、健全(笑)で、生真面目(笑)で、勤勉(笑)で、忠誠心(笑)に富み、正義感(笑)に満ち溢れた人物として描かれてすらいる。
そのことの是非はここでは問わないけれど、とはいえこの語り口に素直(笑)に反応して、「社会主義」のことを「社会主義」(笑)と呼ぶのは安易でしょう。真面目で冗談の通じない、頭の固い、服装のダサい恋人に苛立って、うっかり、「健全さと「社会主義」を嘲笑する言葉」を書きなぐってしまった「私」のことを、愚かな男だとなじるのは安易でしょう。本書にはこんなくだりがあります。

あんたたちは僕のマルケータ宛ての手紙を全部読んだんですか? そうさ、マルケータはすべてを真面目にとるからな、君はからかい半分だろうが、もう一人のが言葉をついだ。ところで、真面目にとることって何か言ってみろ。それは、党とか、楽天主義とか、規律とかでしょう? 彼女が真面目にとる、そういうことがみんな君にはお笑いってわけだ。ねえ、わかって下さいよ、と私は言った、どうして僕があんなことを書いたのか、覚えていないんだから、そんなちょっとした文を冗談半分に書きなぐったのです、深く考えもせずに、もし僕に悪企みでもあったら、党の合宿へなんか送るはずがないでしょう。どんな風に君が書いたかなんてどうでもいいんだ。いそいで書こうが、ゆっくり書こうが、膝の上でだろうと机の上でだろうと、君は心に思っていることしか書けなかったんだ。それ以外のことは書けなかったんだ。君がもっと思慮深かったら、あんなことは書かなかったかもしれん。だが嘘偽り無く君はあんな風に書いてしまったんだ。おかがで俺たちには君が何者であるかがわかったよ。とにかく君がたくさんの顔を持っているってことがな、一つは党用に、もう一つは他のことのために。私は自分の抗弁が説得力のある論拠を失ってしまったような気がした。私はさらに何度も同じようなことをくり返し言った。あれは冗談で、無意味な言葉であり、あの時の気分のせいだとか何とか。しかし連中は聞き入れなかった。私が文章を、あけっぴろげの絵ハガキに書き、だれもがそれを読めたのだから、その言葉は客観的な内容のもので、それには、私の気分についての註釈など、まったくつけ加える余地がないと言った。


 私はこの一節を読み終えて、途方にくれてしまいました。めまいがしました。『冗談』には、自分が大切に思っている人に宛てて私的な気持ちを綴った文章が、当たり前のように他人の目に触れてしまう「場」が描かれている。そこでは、人が話した言葉はすべて真実であり、客観的であり、熟慮の上で話されたものだ。その「場」では、うっかりしたことや、「てきとー」なことや、ちょっとしたほのめかし、その時の気持ちに流されたさして深い意味のないつぶやきは、存在することを許されない。絵ハガキに書かれた悪口、膝の上での殴り書き、画面に打ち出される文字表示は、すべて私たちが「心に思っていること」であり、等しく価値を持つものとして扱われてしまう。
ふざけてる、馬鹿げてる、そんな「場」にはあまり長居したくないと私は思う。そしてすぐさま、「ソ連崩壊後の日本に生まれていてよかった」「大日本帝国憲法下に暮らしていなくてよかった」なんて、ぬるいことを考えてしまう。


しかし、です。


『冗談』の「私」と『インストール』の「私」。


確かに『冗談』には、共産党体制下で「私」が味わった「言葉の不自由さ」がびっしり書かれているのであって、すべての「場」に普遍的に当てはまる客観的な真実が書かれているのではないから、注意深い変換処理を施さないまま乱暴に一般化するのは不適切な読み方なのかもしれないけれど、ミラン・クンデラが描き出したこの異常な「場」は、言葉を話し・聴くすべての「場」が然るべく「成長」したものだと仮定できはしないか。『冗談』に書かれているのは「私」の「現在」であって私の現在ではないとつい考えがちだけれど、ほんとうにそうなのか。
もう一度、クンデラが当時のチェコで見出した「場」の特質を確かめておきましょう。その「場」ではすべての言葉が心からのものとして受け取られてしまう。その「場」ではすべての言葉は健全でなければならない。その「場」では本音/建前の使い分け、真実/嘘の混淆、ネタ/マジの判別が、認められない。うっかりしたことは言えず、いつも・いつまでも、「空気」を読み/書きしていなければ、すぐさまそこから、追放されるか、黙殺されるかしてしまう。


私はうつろな目のまま辺りを見回した。昼ご飯の時間が済んですぐの教室は、誰かのお弁当の具だった酢豚の匂いと春の暖かい陽気がこもっていてまるで人間の胃の中のようである。クラスメイトの女の子達はおしゃべりおしゃべり、ヒステリックさを感じるほどの元気な笑い声は教室中の窓ガラスをしびれさせている。平和? 違う、みんな騙しあいっこをしている。受験勉強シテル? マッサカー私昨日九時二寝チャッタ、本当ダヨウダカラコンナニ元気ナノ。じゃあその目の下の隈は何だと聞きたい。まあ私がこんなつっこみいれなくても、みんな相手の嘘八百はちゃんと見抜いている。じゃあ何故皆、競いあうようにして頑張ってない自分、をアピールするのか。やはり自分を天才だと思わせたいし思いこみたいからだ、そしてその反面すごい平和主義で、ああ可愛い、でも汚い、朦朧としていたら光一はやさしい口調になっていった。
『インストール』(綿矢りさ

私が『冗談』から抽出した「場」の特質についての記述が妥当だとすれば、綿矢りさが描き出している「場」は、クンデラが描き出した「場」と同じ特質を持っています。違うのは、双方の「場」が当事者たちに強要しているのが、健全な沈黙か、不健全な饒舌か、という点。規模と程度の差こそあれ、かつての共産党による「正当な」言論統制と、いま日本の学校で起きている誰が始めたのかすらよくわからない「騙しあいっこ」は、同じように効力を発揮しています。
他にいくらでも例示は並べられるでしょう。たとえば1995年に日本で起きた地下鉄サリン事件に関するテレビ報道の是非を問うたり、太平洋戦争終戦直後、戦争を「なかったこと」にしようとしていた一部の論勢を糾弾したり、2001年9月15日にNY貿易センタービルに二機の旅客機が追突したことをきっかけに始まった一連の軍事活動を話題にしたり、2009年6月1日に秋葉原で起きた連続殺傷事件についてひとくさりお喋りしたりする時、もっと言えば、いま・ここに、こうしてこんな風に、文字を書きつけていこうとしているまさにその時、そこには否応なく「場」が生まれ、「空気」が読み/書きされ、どれかしらの「空気」や「思想」が力を持ち、その果てに、その「場」で話される言葉は一面化し、単調になり、効力を失って、そもそもの理念や意味が脱色されて、なんの生産性もない言葉ばかりがだらしなく流通するようになる。



じっさいのところ、「場」と呼ばれるものに実体はありません。「場」というのは、いくつもの言葉たちが集まり積み重なって、さまざまな関わり方をしているのを、あるどこかしらの立場から眺めた時にだけ触れられる、不確かで、とらえどころのない、想像上の時・空間だからです。
けれどもその「場」では、「空気」とか「権力」とか呼ばれるなんとなくうっとうしいものは、とても強い力を持っているので、一度その「空気」や「権力」が生まれ、育ってしまうと、そこからなかなか脱け出せなくなってしまう。だから『冗談』の「私」はささいな苛立ちから「追放」されてしまったのだし、『インストール』の「私」は突発的な思いつきで「離脱」してしまったのです。(後篇へつづく)