で?っていう備忘録

再開です。

「「「「空気」の読み方」の読み方」の読み方の[……]」の読み方 『冗談』(ミラン・クンデラ)をめぐって(中篇)

(承前)「空気嫁」とまじめに向き合うのはとても困難だ。


前回のつづき)と、そこまでなら、大方の想像はつくでしょう。そしてこの前提に立って、「空気」や「権力」を「糾弾」したり、「離脱」しようとすることも容易い。しかしその「糾弾」や「離脱」も、もちろんのこと、すぐさま一面化し、単調になり、効力を失ってしまうでしょう。蓮實重彦が『物語批判序説』で述べているように、


説話論的な磁場。それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。そこで口を開くとき、人は、語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかはないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっとも意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている。

「糾弾」も「離脱」も、その「場」にあってその「場」を拒絶しようとする身振りには他ならないのだけれど、そのどちらも、けっきょくのところその「場」の「空気」は変えられない。だから『物語批判序説』は、そうした「糾弾」や「離脱」を「おそらく、同時代にふさわしい戦略性がそこに欠落していたからだろう」として、「物語に反対の物語を対置させることではなく、物語そのものにもっとも近づいて、自分自身を物語になぞらえさえしながら、物語的な欲望を意気阻喪させる」「倒錯的な」「失望の生産」「を積極的にうけいれることにする。」


もちろんこの姿勢は、とりあえずのものにすぎないが故に、徹底して遊戯的である。だが、この遊戯は、この上ない真剣さで演じ通されねばならない。とりあえずの遊戯であることをやめる瞬間、人はきまって物語に快く身をまかしてしまうからだ。この誘惑のもっとも近くにまで侵入し、あたかもそれに屈したかのように振舞いながら、あくまでとりあえずとつぶやきつづけることにしよう。」

とりあえず、冗談半分に、あえて、ネタとして、話すこと。際限なく生まれては消えていく「おしゃべりの場」にあって、ついうっかりしたことを言わないように、くだらないつまらないお喋りに巻き込まれないように、本気で遊ぶこと。
きっと、これは、自分が何かを語ろうとする時の身振りとしては、誠実なものなのでしょう。まずいことを口走らないように自戒することは、書き手/語り手が担うべきひとつの倫理として、十分円滑に機能し得るでしょう。
しかしその一方で、『失われた時を求めて』(マルセル・プルースト)における「戦争の終焉」の予想に騒ぐフランス国民たちや、「一般教養」が身に着けるべき自明の知識として浅く共有されることへのギュスターヴ・フローベールの苛立ち、ミシェル・フーコーへの誤解の訂正、「作者の死」をめぐって紋切り型を避けながらなお物語を語るために浅く作者たろうとしたロラン・バルトの戦略への言及などによって、『物語批判序説』は、自身の性格を、結果的に特徴づけてしまっています。
『物語批判序説』には「書くこと/語ること」への繊細すぎるくらいの凝視があります。しかし一方で、本書には「読むこと/聴くこと」への言及がほとんど見られません。「読むこと」と「書くこと」の避けられない分かち難さを度外視して読んだとき、『物語批判序説』は、「書くこと/語ること」にしか関心がないようにも思えます。



もちろん、この批判がもし『物語批判序説』に対して面と向かって言われたとしたら、それは、たとえばこんにゃくについて書かれた著作に向かって、「ちくわのことが書かれていないではないか!」といちゃもんつけするような、無茶苦茶な要求でしょう。じっさいのところ、『物語批判序説』は、「書くこと/語ること」に難渋している著作たちを丁寧に読み込むという身振りそのものでもって、「読むこと/聞くこと」を(こう言ってよければ)、ひどく回りくどい遠まわしなやり方で、思考しようとしているのだとも読める。
けれども私がここで気にしたいのは、書き手/語り手のスタンスではなくて、読み手/聴き手が、前述のような少し居心地の悪い「場」で、どうやって書き手/語り手の言葉を受け止めればいいのか、ということです。『冗談』に立ち返って言うなら、私の問いは、こんな風に要約されます。


「私はこの本を、どうやって読めばよかったのか、真面目に読むべきだったのか? 冗談半分に読むべきだったのか? そもそも『冗談』(ミラン・クンデラ)は、真面目に書かれているのか? 冗談半分で書かれているのか?」

考えられる5つの選択肢

  1.真面目に書かれているから、真面目に読むべき
  2.真面目に書かれているが、冗談半分に読むべき
  3.冗談半分に書かれているが、真面目に読むべき
  4.冗談半分に書かれているから、冗談半分に読むべき
  5.真面目に書かれているか冗談半分に書かれているかわからないから、その場その場の流れに合わせて読み方を変えながら読むべき


ここで考えられる選択肢はこの5つでしょう。
たとえば1周目に1.をして2周目に4.をするなど、重複選択はいくらでも可能です。だから、ここで語るべきなのは、5つのなかからどれを選ぶべきかではなく、どれを選ぶと、本書の読みが、どう変わるかでしょう。本書には、社会主義思想への盲目の/偽善の陶酔が生み出した悲劇とまったく同じ地平で、売春婦との複数人での情事や、町でたまたま見かけた女性への盲目の陶酔が生み出した熱く美しい恋が、そして彼女との偶然の再会が、書かれています。
私は『冗談』に書き込まれたいくつもの断片的な記憶の散らばりそれぞれに、どうやって向かい合えばいいのでしょうか?
作品自体が受け取りづらい性質の悪い冗談であるかのような本書を読んでいると、私は、二十一世紀に若い日本語話者たちがウェブ上でよく使う俗語で、こんな風に呟きたい衝動に駆られてしまいます。


マジレスワロスw


(後篇へつづく)