で?っていう備忘録

再開です。

2010年4月28日水曜3限にぼくは何を考えていたのか

ざっくり言えば、プログラムというのは、何らかの「きまり」に従って何らかの「手続き」を経たうえで、あるところは省略し、あるところは詳説した言葉の束だ。それはその界隈の人(と機械)にしか通じないけれど、使い方・読み方を仲間内で共有しておけば、ふだんの言葉よりもより使い勝手の好い、より伝導速度に優れた言葉として利用できる。

そんな言葉の束なりへ、何かちょっとしたきっかけがあって、誰かが(人とは限らない)、何かを求めて、介入していく。その目的はたとえばバグの修復かもしれないし、自分のプログラムに転用できそうな言葉の束ね方を見つけて、ちょっと拝借するためかもしれないし、あるいはそのプログラム自体を書き換えようという目論見かもしれない。いずれにせよプログラム内部への立ち入りは始められ、その誰か(あるいは別のプログラムかもしれない)は、自分とは似ているが異なった言葉の束へと働きかけ、相手の一部を書き換えたり、逆に相手に自分の一部を書き換えられたりする。
書き換え自体には善悪はないけれど、発言者の立場によっては、そうした行為や、行為者は、ウィルスとか、ワクチンとか、クラッカーとか、メンテナンスとか、呼ばれる。プログラムハッキングの手順をざっくり言うと、こんなところだ。
「詩に分け入る」ということも、同じ手順でなされていると思う。
詩というのは、何らかの「きまり」に従い何らかの「手続き」を経たうえで、伝わるべき人(それは書き手自身かもしれない)により伝わりやすい言葉の集め方を探していく試みだ。


……いや、この言い方は、少し歪んでいる気がするな。


とりあえず、「読む」と「書く」を区別します。
詩を「書く」というのは、何らかの「きまり」に従い何らかの「手続き」を経たうえで、伝えるべき人(書き手自身も含め)により伝わりやすい言葉の集め方を探していく試みだ。
他方、詩を「読む」というのは、すでにある一篇なら一篇の詩に分け入って行き、その詩が従っている「きまり」や経ている「手続き」を、見抜いたり、追体験したり、なんだかよくわからなかったりして、その一篇の詩に近づいたり、遠ざかったり、なるべくなら同化しようとしたりする試みだ。


よし、大丈夫。今度は、「読む」と「書く」を一致させる。


ある一篇の詩を「読む」というのは、何らかの「きまり」に従い何らかの「手続き」を経たうえで、読み手である自分自身により伝わりやすい言葉の集め方を探して行く試みだ。
他方、何かあることについて詩を「書く」というのは、すでにある一個なら一個の「世界、素材、自然、対象……etc」に分け入って行き、その「世界(後略)」がしたがっている「きまり」や経ている「手続き」を、見抜いたり、追体験したり、なんだかよくわからなかったりして、その一個の「世界(後略)」に近づいたり、遠ざかったり、なるべくなら同化しようとしたりする試みだ。


どうしてこんなよくわからないことを冒頭からいきなり話したかというと、これから、ぼくは、2010年4月28日水曜3限『短詩型文学論』で、北村太郎田村隆一を読みながら、考えていたことを、同年5月3日に、改めて考え直してみたくなったからだ。
この講義の前後にぼくは以下のような本を読んでいた。『人はなぜ話すのか』(ロジャー・C・シャンク)、『神話が考える』(福嶋亮太)、『世界コミュニケーション』(ノルベルト・ボルツ)、『適切な世界の適切ならざる私』(文月悠光)、『冗談』(ミラン・クンデラ)。
これらの本を読みながら考えていたことが、北村太郎田村隆一を読んだ時に、わらわらと頭に思い浮かんだ。それをノートに書いておいたのだけれど、読み返してみると、何が書いてあるのかよくわからなくなっている。たとえばノートの中程には、こんなふうに二つの分類表のようなものが書かれていて、

   垂直性 ――迷いなさ かっこいい ロバストネス
    (田村隆一  言い切り 直立不動 堅牢 否定
     吉本隆明  言いっ放し 強さ 明るさ
     村上春樹

   平行性 ――ためらい 列挙 弱さ
    (谷川俊太郎 とまどい かわいい フラジャイル
     北村太郎  言い淀み のらりくらり 脆弱
     保坂和志  暗さ 肯定


きっとその時のぼくは、こんな言葉が書かれている北村太郎の詩と、

朝の水が一滴、ほそい剃刀の
刃のうえに光って、落ちる――それが
一生というものか。残酷だ。
なぜ、ぼくは生きていられるのか。嵐の
海を一日中、見つめているような
眼をして、人生の半ばを過ぎた。


 こんな言葉が書かれている田村隆一の詩を読み比べて、

茂吉のpoesieの神さまは
浅草の観音さまと鰻の蒲焼


かれには定型という城壁があったから
雷門へ行きさえすればよかった


ぼくの神経質な神は
いつも不機嫌だ 火災保険もかけてない


小さな家と
大きな沈黙


「言葉なんて覚えるんじゃなかった」というすごい一行と、「なぜ、ぼくは生きていられるのか。嵐の/海を一日中、見つめているような/眼をして、人生の半ばを過ぎた。」というこれもまたすごいセンテンスとの差に愕然としながら、講義はほとんど上の空で聴いていなかったのだろう。さっきの二分類のすぐ上には、

Passが
一つだと
やってけないから
「扉」は、
だんだん
狭く
なるのがよい

開かれた「作品」という迷惑な幻想
データ保存領域に至るための「門」は
開いたり閉じたりする のだけど
「位」と「項」にいくつ定数を置くかどうか
というだけの話な気がする。


という二つの走り書きがしてある。どうやらぼくは当時、両作になんとか分け入ろうとし、上手くいったりいかなかったりした果てに、「門」や「扉」という比喩を用いて、一篇の詩に入る時の、入り込みやすさについて考えていたようだ。「Pass」「位」「項」は、北村太郎田村隆一の詩と読み手である自分とが共有し得る「言葉、世界観、思考、感情、語彙……etc」のことを指すのだろう。

たとえばさっき引用した田村隆一の詩に書かれている「poesieの神さま」のくだり。短歌詠みである斉藤茂吉の「詩神」は、特定の場所に行きさえすればいつでもそこにいてくれる存在である一方で、散文詩書きの田村隆一の「詩神」は神経質で、いつも不機嫌らしいと、そこまではわかる。言葉にできる。「火災保険もかけてない」というのもきっと、「詩神」のちょっとした不機嫌で、詩想が燃え尽きて無くなってしまったら、取り返しがつかないことになる、といったようなことを1フレーズで言い表したものだろう。散文詩を書くときには、定型のような明確な始まりと終わりがないから、一篇の詩の終わりは、書き手と当の詩とこれまで書かれ/読まれてきた詩たちとのやり取りから見つけ出す必要がある。そこはわかる。けれども次の一連がわからない。すごい二行だというのはわかるけど、すごさが言語化できない。

その前の北村太郎のくだり。これもぼくには――大枠だけ同じで細部はまるで違うけど――似たことを読んだ/考えた/経験したことがあるから、わかる。『正法眼蔵』(道元)に、悟りというのは水に月が映るようなものであって、そのこと自体で水がどうにかなるとか、月がどうにかなるというようなものではない、とあったのを読んだこともある。『ねぎを刻む』(江国香織)という、ある夜いきなりに訪れた寂しさで心が壊れてしまわないように、台所でひたすらにねぎを刻む女性のことを書いた短編小説を読んだこともある。「朝の水が一滴、ほそい剃刀の/刃のうえに光って、落ちる――それが」という二行が、日常の言葉を用いて別の次元のことを語るというやり方で書かれているのでなければ、あるふとしたこと、たとえば時計の針が動くのを目撃してしまったとか、夜明けの日差しで部屋が明るくなって行くのを始終見通してしまったとか、携帯電話と充電器を接続した瞬間、起き上がっていられないくらいの寒気を感じたとか、そういうことをきっかけに、「人生」という言葉で区切られることの多い、かなりの長さのある一区切りの時間のことを考えてしまって、めまぐるしい運動の渦中でふと自分の周辺だけ時空が止まってしまったような感じになる、というようなことは、わかる。けれどもそれが「人生の半ばを過ぎた」者にしか味わえないものかどうかはわからない。北村太郎は、きっと、そう感じて、そう書いたのだろうけれど、いきなり自分の人生だけに停止ボタンが押されてしまったたような不意打ちの感覚が、かなり年とった人でなければ理解できないものなのだとしたら、この詩全体を、ぼくは理解できないことになる。というより、それ以上に、それはずるい、と思う。この詩をぼくが理解できないのだとしたら、この詩は、諦念を独占しているということになるからだ。(とはいえぼくのこの「ずるい」という感情はかなり身勝手だ。)

といったように、ぼくは、水曜3限に、詩を読む/書く時には、それぞれに「入り込みやすさ」というやつがあるのだと、考えていたんだろう。「理解しやすさ」と言い換えてもいい。ぼくは詩が、読めたり読めなかったりはするが、いまひとつ上手く書けない。「入り込み」が上手くいかないせいだと考えている。詩は、何かしらに対する呼びかけ/応答だから、適切な歩み寄り方をしてやれば、かなりのところまで理解したり、受け止めたりできるはずだ、と。現代詩を読むときに、優しい顔での強迫のように口にされる、「わからなくてもいい」とは、理解の放棄を推奨しているのではなくて、言語化不可能性を容認しているのだ、と。

で、「理解しやすさ」=「入り込みやすさ」について考え直すと、きっとそれはいつも・いつまでも、誤解というよりか「元の言葉とはずれた」ものになってしまう。けど、『人はなぜ話すのか』がこう言っているように、

まったく同じことなど、けっして誰にも起こらないのは明らかだ。実際に浮かび上がってくるのは、入力された話に表面上似たところがある記憶内の挿話なのである。たぶん、同じ話には類似点より異なる点のほうが多いだろう。

私たちの理解がまちまちな理由は、私たちの記憶が違うからだ。私の経験とあなたの経験とは異なる。何かを理解するためには、私たちはそれとつながりがある一番近いものを記憶の中から探さなければならない。


「理解」とか「介入」をする時にはまず、自分と相手との明らかな「ずれ」をきちんと見つめて、その上で、お互いの間でなんとなく似てるっぽいかもしれない部分を探して、お互いに持ち寄って、相手に見せ合う、というやり取りが必要で、言われなくても誰だって程度の差こそあれそうしているんだろう。
だから詩を読み/書きするときも、「(いつまでたっても)わからなくていい」と言うのではなくて、「(そのうちわかるかもしれないからとりあえずいまは)わからなくていい」と言うべきなのかもしれない。もっと言えば、もっと積極的に、堂々と、臆面もなく、わかったふりをしなくてはいけないのかもしれない。分かったと思ったが、実はぜんぜん分かってなかった、というのは、すごく恥ずかしいことだけど、「あなたの話を聴いていて、私は、○○だと思った/考えた」と、強引にでも言ってのけることで、誰か(やその人の言葉)を自分により確かにつなぎ止めておけるのだとしたら、恥じらいとか、迷いなんて、そこらへんにてきとうに捨てておけばいいのかもしれない。

それからこれは、高橋源一郎さんがどこかで『漱石を読む』(小島信夫)のことをひとくさり語っていたとき書いていたことなのだが、理想の文芸評論というのは、1.扱う作品の全文の引用。2.全文についてのコメント。3.その作品への返信として、同じくらいの長さの作品。という3つが不可欠になるそうだ。

聞き手にとって理解するということは、話し手の話を聞き手の話に移し換える、ということである。記憶の中で話が用いられる最も興味深い一面は、理解力に影響を与えるという面である。同じ話を聞いても一人一人の捉え方がまったく異なるのは、それぞれすでに知っている話が違うからなのだ。人は理解するときに、過去に自分が聞いた話として新しい話を解釈しようとするのである。


『人はなぜ話すのか』がこう書いているのを信じるなら、「理解」や「介入」は、相手の話を自分の語彙や文法のなかで再生し直すということになるはずだから、高橋源一郎さんが提唱する理想の文芸評論というのは、とても理に適ったやり方だ(実現性は、ぜんぜんないけど)。
これで、2010年4月28日水曜3限にぼくが何を考えていたのかを、おおよそ再生し終えたことになる。というわけで、最後に、北村太郎田村隆一を読んだ直後に書いたものを引用して、キーボードから手を離すことにしたい。ノートの下段には、こんなメモもあった。どうして下線を引いてあるのかは思い出せない。(以下原文では下線。)

言葉が立ち上がらない絶望。
再起動不可能性。