で?っていう備忘録

再開です。

「もっと評価されるべき」すべての文芸たちのために(『冗談』をめぐって(後篇))(9)

9.ミラン・クンデラと、リービ英雄


この章に書かれていた文章は、先月書いた『冗談』(ミラン・クンデラ)についてのエントリ↓にもう掲載されてしまっています。

http://d.hatena.ne.jp/bartlebooth/20100504#1272948448

そこにはこういう記述があって、

そんなクンデラに「二つの言語」はなく、あるのはいつも「いくつもの(少し使いづらい)言語」だ。クンデラは「言語」の使いづらさ、役に立たなさをよく知っている。言葉で伝えられることと、伝えられないことの線引きをきちんとしている。だからクンデラは使える言葉、役に立つ言葉、他の人にもきちんと伝わる言葉だけを使い、考え、書く。クンデラは自分の言葉をすら見知らぬ外国語のようにして扱うし、自分の経験をすら見知らぬ外国人の話のように語る。クンデラは「うまく言葉にできないこと」に悩まない。それはもうしかたのないことなのだという潔さがある。クンデラには外国語がない代わりに母語もない。外国がない代わりに母国もない。

ぼくは、言語や国境を越えて多くの人に読まれている作家一般にも言えそうなことを、ミラン・クンデラの名前を借りて、感傷的な語り口でスケッチしたのでした。
そしてそのスケッチから出発して、『冗談』(ミラン・クンデラ)に描かれる共産政権下のチェコで若い男が遭遇した笑えない冗談のような不幸について考え、こんなエントリを書いた。

http://d.hatena.ne.jp/bartlebooth/20100505#1273036720

はしょって言えば、「人と人とが言葉を交し合う「場」では、いつも・どうあがいても「その場の空気」とでも呼ぶべき話題の偏り、思考の制限、発言の誘導、紋切り型なスクリプトというのが生まれてしまう。「その場の空気」をいつも気にしながらではないと話せないなんて居心地が悪いけど、程度の差こそあれそれは仕方がない。問題は、そういう居心地の悪い「場の空気」のなかで書かれた言葉を、居心地の悪い「場の空気」のなかで読むとき、どういう読み方をすると、どうなるのかだ。マジで読むと、どうなるか。ネタで読むとどうなるか。」ということになります。

けっきょく前のエントリでぼくは、「平成前後に生まれた若い大学生が属している場で、第二次大戦後の協賛政権下のチェコで若い大学生が経験した話を、真面目に読むことは、難しいね。悪気はないのに、笑ってしまうね。」という結論に落ち着いてしまいました。

「ネタ的コンテンツ消費が常套手段になっている場」で、「マジレスが常に強いられる場」の田舎っぽい真面目で純情な物語を読むと、なんだか笑えてしまう、という結論。

よく似た心境には、たとえば、こんな事例があるでしょう。
「かわいい女の子たちが笑顔ではしゃぎ回るアニメを見ながら、しかめ面した男たちが堅苦しい口調でその魅力を熱く語り合う」という「場」が、一歩離れたところから眺めていると「ぷっ(笑)」となってしまう。」
「たかだか≪婦女子の暇つぶし≫のために、大の大人が、生活を大量に犠牲にして、膨大な情熱を注ぎ込んでいるというのは、よくよく考えるとなんだか、馬鹿みたいだ。」
「どうして、別に誰に頼まれたわけでもないのに、自分に宛てて書かれたわけでもない他人の苦労話を、かしこまった姿勢で、恭しく、丁寧に、読まなければならんのだ?」
他には、この人もこんなことを書いている。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1604_18107.html


前回のエントリは気詰まりな感じで終わってしまいましたが、俗っぽい語彙と話法で言うなら、対処法は簡単です。
「甘えんな。空気読むのサボんな。毎回、ちゃんと、話の流れ、追いなさい。「その場の空気」の居心地が悪いんだったら、話題を工夫したり、「場」を変えたりして、気分転換しなさい。」となります。
たとえば『物語批判序説』(蓮實重彦)が採用した戦略は、要するに「くだらないことを物知り顔でさも重大そうに真面目に語る「場」のことが嫌いだけど、そのことを「物知り顔でさも重大そうに真面目に語る」のも嫌だ。だからここでする話は全部ネタだと思って聞いてほしい。」だと言えますが、そんな『物語批判序説』に欠けていたのは、実のところ「笑い」だったのかもしれないということです。
「くだらないことを物知り顔でさも重大そうに真面目に語る「場」のことを、「とか言っちゃってもう(笑)」と言えなかった『物語批判序説』は、「笑い」を積極的に物語りに組み込めなかったせいで、「ワタクシ、これから冗談を言わせて頂きます」なんて真面目な顔で言う羽目になった。
同じように、『冗談』(ミラン・クンデラ)を読もうとしていたぼくも、「「気まぐれな冗談のせいでとんだ災難だった。熱い恋をした。大人気ない復讐をした。」と深刻な顔で語る本を読むときには、冗談半分で読めばいいのか? 真面目に読めばいいのか?」と真面目に考えてしまった。
どちらも(少なくともぼくは)、「その場の空気」を過敏に気にしてしまったせいで、その居心地の悪さにしつこくこだわってしまって、「その場の空気」に気分を持っていかれてしまっていた。「その場の空気」を読もう読もうとし過ぎるあまり、「その場の空気」を書き換えたり、「場」自体を置き換えたりすることに気が回らなかった。だから、こう結論できる。


・別に必ずしも「性質の悪い冗談」を真面目に受け取らなくてもいい。
・別に必ずしも「しかめ面の話」を冗談半分にちゃかさなくてもいい。
・相手が属する「場の空気」と自分が属する「場の空気」の齟齬は避けられない。
・マジレスとネタレスの境界はぐじゅぐじゅだし、その場その場で変わるから、けっきょくのところある発言がどちらに属するものなのかは決められない。
・だから、ある言葉が本気で話されたものなのか、冗談で話されたものなのかは、傾聴・熟慮の上、聞き手が聞き手の理解で決定してしまっていい。
・話し手は、聞き手がどう受け取るかを考慮に入れながら、言葉を選ぶようにすると、誤解が減る。
(……ちょっと面倒になったので、未証明ですが、本稿では以上の帰結を是として扱います。あとは皆様の方で確認してください。)

しかし、なんだかなぁ。カジュアルな語り口で話すと、たいていの文学理論上の諸問題は「垢抜けない人見知りの田舎者」が人付き合いに馴染めずにおどおどしているだけみたいな感じになるのだな。


追記:同じ蓮實重彦でも『反‐日本語論』は皮肉とユーモアたっぷりの愉快な紳士が主役です。