で?っていう備忘録

再開です。

そのうち『マイケル・K』と『slow man』の紹介をがっつり書くためのメモ

この小説に出てくる「事件」や「出来事」や「人」は、ひたすらに歩き続ける主人公のもとへ、次から次へとやって来ては去り、やって来ては去っていく。そうして二度と同じ地点へ同じようには還ってこない。


主人公マイケル・Kが体験するのは、肉親の病、突然の暴動、送付されない許可証、わずかな望みを託した移住、目的の喪失、いきなり現れた誰かに横道へ逸らされる旅路、理由もなく連れ去られ働かされるひと時、理不尽な暴力、眠る場所さえ見つからない日、とびきりの孤独と暗闇のなかで暮らす昼夜。


それから、収穫の楽しみ、食べる喜び、誰にも邪魔されずに好きなだけ眠る心地よさ、肉親への愛憎入り混じるかなり込み合ったあの気分、知らぬ間にはぐれてしまうことのしんどさ、そして「いま・ここにいるだけなのに感じるこの不安」。


そういうあれこれが、もったいぶった前置きもなく、かったるい言い訳や解説や分析もないまま、静かに語られる。物語は粛々と進行していく。読後感が「苦い」という訳者の言葉が的確。のめり込むまでに少し手こずる人もいるかもだけど、いったん乗っかってしまえばあとはもう二週間はこれだけ食べてればOK。


これから日本でももっと読まれることになるだろうJ・M・クッツェー。この人が書く文章はきっと、「無駄のない端整な描写」とか「作品全体を貫くぴんと張り詰めた緊張」とか「人間への深い洞察」とか評されるだろう。さまざまな書き手のそれと較べられ、「まるで人生のようだ」というカフカブランショを褒める時使われた常套語がため息混じりに読み手の脳裏で呟かれるだろう。


読み替えもされるだろう。作中で大切に語られる「種」が、「母」が、「家」が、「大地」が、「紙幣」が、誰にとって・何を・どのくらい意味するか(=他の話題のどの言葉と置き換えられるか)を考えるのもよし、文学史上でなんか妙に特権的な扱いを受けているイニシャル「K」について思いをめぐらせるもよし、「本歌取り」の作法を抽出するもよし、南アフリカの地理と歴史を横に並べて〈作中の観光地〉をめぐるもよし。ちなみに訳者はアパルトヘイトや〈農耕者〉に注目して読んでみせてくれている。


語り手が物語を語ることだけに集中しているから、読み手との交流やサービスに熱心な小説たち(たとえば太宰治の遺産で今なお商売しているみなさん、あなたですよ(笑))を読んでいる時にちょくちょく感じる「うっとうしさ」がまるでない。ぐいぐい読める。


日本の一部の湿っぽい小説がどうにも口に合わないという人にはぴったり。



追記:『slow man』はくぼたのぞみ氏が翻訳中なのかな?