で?っていう備忘録

再開です。

いま読んでる小説(ある学生の)について

日常生活で溜め込んだ「寂しい」とか「悲しい」を勢いよく爆発させれば、
じつは誰にでもそれなりに強度のある文章が書ける。
たとえば、下手くそだけど頑張って書いたっぽいラブレターが読んでて感動するのは、
手紙のなかで「愛しい」が大量に爆発しているからだ。
そういう場合、読み手は別に、手紙の内容とか文章作法に目を向ける必要はなく、
素直に「愛しい」を受け止めてあげればいい。


逆もまた然り。
書き手が私情をなるべく排して事実とか「面白い出来事」を語ろうとしているのなら、
読み手は「作者が本当に言いたかったこと」を粗探しするのではなくて、
語り口の巧さとか「話」自体の面白さ、「場面」自体の美しさに目を向ければいい。


この小説は強い「憎しみ」や「孤独感」を元手にして書かれている。
だから、登場人物に素朴に感情移入したり、物語世界に無心で没入する読み方をする人には、
「あたし」の常軌を逸した言動や思考や境遇はまったく理解出来ないだろう。
8週連続で「夏休みが終わらない」理由を「製作会社の金儲け」にしか見出せない人みたいに。
「赤い糸」の破綻した物語展開を「メイの文才の欠如」としてしか見ない人みたいに。
 
けど僕は、この小説が語る「異常な物語」そのものだけではなくて、
この小説が「異常な物語」で語ろうとしている「  」をこそ読んだほうがいいと思った。
「  」だ。
言葉にした途端に陳腐なもの・ありきたりなものになってしまう何かしら。