で?っていう備忘録

再開です。

『このあいだ東京でね』のこと2

コピペした手前また『このあいだ東京でね』を読み直していたら、
またいろいろ書きたいことが思い浮かんできました。
もうしばらく引用を続けますが、事後的に思いついたことを、
≪≫でくくって書き足しておきます。


(承前)
「ある程度人生に見通しを立てた複数の人間が東京都内に新たな住居を探し求めていた。」
という書き方は「ずれてる」と前回書きました。
そうして他の小説家の書き出しをいくつか並べて、
それらがどこか似ているところがある、と書きました。
つまり、小説の一行目には何か「型」のようなものがあるんじゃないか。
≪それどころか、二行目にも、三行目にも、第一段落にも、第一章にも、第一巻にも、小説そのものにも、何か「型」のようなものがあるんじゃないか。≫



そうなんですよ。小説って、
短歌とか俳句と比べれば字数制限もなくて、
映画みたいに下準備が要らなくて(これは、半分嘘だけど)
漫画みたいに描くのに時間がかからなくて(これも)
絵とか彫刻みたいに技術も要らない(これもだ)。
だからすごく自由で、お手軽で、文字を書くことさえできれば、
誰にでもすぐにでも始められて、カンタンだ、と感じている人も、
少なくないと思います。



女子高生や、源氏物語が大好きなお婆ちゃんがケータイでなにかを書き始めるのも、
美しく幼い女性を描いた人形やアニメやゲームを集めている男性がPCでなにかを書き始めるのも、
大学生が文芸サークルに入って同人誌向けになにかを書き始めるのも、
そこに理由のひとつがあると言ってしまって、まぁ差し支えない。


だから彼ら/僕らは気軽に小説を書き始める。
そして挫折する。
自分が思うような文章が書けなくて。
「あれ?俺、下手くそだ。。。」なんて。
「何で?どうして書けないの?」なんて。
「てか逆に何であの人はあんなに上手く書けるの?」なんて。
「私には才能といふものが全く欠けてゐるのであらうか?」なんて。




「何で?って、小説にも「型」があるんですよ!」と僕は書く。




前回指摘したみたいな「〜はーた。」という書き出しの「型」。
主人公が出てきて、友人Aが出てきて、学校に行くと、
物語が進むと恋人とかになるあの子が出てきて、謎の事件が!という「型」。
手口不明のまま殺人事件が起きて、容疑者がリストアップされて、証拠が見つかって、
家政婦や読者や語り手が犯人だったことが分かる、という「型」。
始めに風景描写があって、人が出てきて、思い出話が始まる、という「型」。
これも「型」、あれも「型」、それも「型」……。


この「型」を少しでも気にしている人と、そうじゃない人。
どっちが「型破り」な小説を書けるかと言うと、ふつうは前者ですよね。
たとえば合コンで、
「布団」を使って駄洒落を言わなくてはならない事態になったとして(ありえない笑)
「布団が風に煽られて予期しない方向へ勢いよく移動してしまうこと」について、
語呂合わせを利用して述べることは、ありきたりで死語でベタだ!と知っているとしたら、
少なくとも、素朴に下準備も無しで「布団が……」と語り始めることはない。
さまぁ〜ずの悲しいダジャレが好例。「鹿を叱る」だけではただ韻を踏んだという面白さしかないけど、そのあと絶妙な間を取ってから「…夜中まで!」→「(三村の焦り気味なツッコミ)」とすることで、耳慣れないものを聴けたお客さんは、笑う。
というよりむしろ、「≪笑い≫は定型からの逸脱そのものによる快楽から生まれる」と言ってもいい。≫


もちろん「型破り」にも程度問題があって、
八方破れの小説が面白くてたまらないかと言えばそれは微妙ですが、
型にハマったありきたりな物事より、
多少「型」を意識してハズしてくる物事のほうが、まぁ、面白い。
(小説に限らず、何事も。)


「芸術とは取りも直さずまずは技術なんだよ。」
みたいなことを言っていた絵描きがいたように思いますが、
古典のレプリカや二番煎じじゃない、自分にしか書けない小説を書きたいという人は、
まずはこの「型」を気にしたほうが、きっと上手くいく。
ちょっと分析がなおざりになってるけど、
青木淳悟さんの書き出しの一行目も、かなり自覚的に「型」からはみ出そうとしていることが、なんとなくでも感じて頂けると幸いです。
そして彼は「型破り」で小説を面白くすることに成功している。
(ついでに言うと、彼が破っている「型」を読み手がいちいち意識してないと、せっかく何日もかけて読んでても、ぜんぜん、面白くない。)
≪↑ここはちょっと書き直して訂正したい。『このあいだ東京でね』は恐ろしく「型」通りの小説で、むしろ、「型」にはまり過ぎて型破りに見えてしまう、という変てこな小説な気がしてきた。≫



ただ気をつけないといけないのは、
「型」を気にする、であって、言葉にする、ではない、ということ。
岡田利規という眼鏡が似合う男性がこんなことを書いています。


「演劇の方法論の確立が最終目的だとかいうならともかく、
そうではなくておもしろい演劇をつくるのが単に目的だとしたら、
自分の方法を体系化していったり明確化していったりすることなど不要なことだ。
明確な体系をすでに持つ方法論と、
方法「論」と呼ぶにはまだあまりに輪郭の曖昧な状態のものとがあって、
さてどちらがより遠くにいく作品を生み出す可能性を秘めているかといえば、
それは後者なのではないかと僕は思う。
方法論の体系化にもし意義があるとすれば、
それは逃走する対象を明確に把握するため、
それによりはっきりと逃走できるようにするため、
にほかならないのではないか。」(chelfish公式HPのコンテンツ、演劇論から。)