で?っていう備忘録

再開です。

逆立ちだらけの水泳大会

備忘録。『このあいだ東京でね』で或る講義のレポを書くつもりなので。


ふつうに読み流してしまえば20世紀の小説作法を多少洗練させたくらいの文章なのに、
読んでると「ぞわぞわ」が読み手のなかに込み上げてきて、居心地が悪くて、
つい「お前誰だよ?!」なんて思いながら、笑ってしまう。
前に読んだ時は文章の掴み所のなさにその秘密があるのではと思ってたけど、
こないだ読み返したらそうでもなかった。


何と言えばいいか、読み手が小説にどれくらい近づいて読めるかで、
この小説の面白さはだいぶ変わるような気がしてきた。


例えば面白かったくだりその1。

「どこそこが最寄り駅となるその土地に、かのデベロッパーが売主として、あのブランドやシリーズのマンションを、どこの建設会社の施工で建て、どこの不動産販売会社が販売代理で売り出すことになるようだ!」
 と話題を呼ぶ新築マンションA。


ただ固有名詞を脱落させるだけで、こんなにもテンションの高さが空回りして笑える文章になるなんてね。
青木淳悟さんは明治の文豪が欲してやまなかった『普遍的な日本語』をついに手に入れたんじゃないか?(笑)
とだけ書いても、そんなの何も書いてないのと同じだから、もう少し詳しく書きたい。


この、「もう少し詳しく書きたい」という気持ちはたぶん散文書き特有のもので、
現代詩の最前線にいる人はどっちかって言うと
「もっときちんと書きたい」とか「もっとすぱっと言いたい」とか、思うんじゃないか。
つまり、なるべく少ない文字数で最大限の威力を持つ潔い言葉を書きたい、と思うんじゃないか。


散文書きは原理上、いくら文章がだらだらぐだぐだしても平気な人種だから、
『宿屋めぐり』も『ピストルズ』も『別れる理由』も『失われた時を求めて』も、
書き手の寿命と体力と気力さえ許せば、何百年でも何千年でも書き続けてられるんじゃないか?


記述つながりでもっと言うと、
「人類」とか「生命」とか世間でよく言われている≪あいつら≫は、
寿命も体力も気力も(自分じゃ止められないくらい)旺盛だから、
いくらでも遺伝子の複製と転写を続けられるんじゃないか。


近代人は原稿用紙にペンでものを書くけれど、現代人は液晶画面に指でものを書くようになった。
原始人は壁に鋭器でものを書いていたけれど、それよりずっと前から≪あいつら≫は、
地面とか海とかに魚とかトカゲとか鳥とか猿とか獣とかでものを書いてたんじゃないか。


やっぱり私的なブログだと話がいくらでも脱線できるから楽だ。
小説は公的な言葉で書かれるから堅苦しい。詩は私的な言葉で書かれるから息苦しい。


楽に喋りたい。