で?っていう備忘録

再開です。

ディランとマーレイの壮絶なるボブ争奪戦

明治の文豪が欲してやまなかった『普遍的な日本語』とは?
という時の「普遍的」という言葉は使われ方によって姿を変える分かりづらい語の典型例だと思う。
そもそもちょっと古いし固いから普段あまり使われない。
「すべてに行き渡っている」
というくらいの意味の「普(あまね)し」と「遍(あまね)し」に、漢語名詞を形容詞化する中国語由来の「的」をくっつけて、
「すべてにすべてに行き渡り行き渡っている」
くらいに解釈するのがいいだろうか。


たしか、去年だったか一昨年だったか、
小説の主人公の名前を「天地遍人(アマチアマネヒト)」として、
「天地に遍く人だから」という説明をしていた人がいて、
選考委員の一人に「遍く」は動詞じゃなくて形容詞ですよと注意されていたけど、
それくらい扱いづらい言葉なのに、
読み方と書き方だけ教えて肝心の「使い方」をなおざりにしてくれたMr.学校教育センセイのお陰で、誤用が増える。神秘めかした使い方も増える。


村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』にこういうくだりがある。

三人目のガール・フレンドが死んだ半月後、僕はミシュレの「魔女」を読んでいた。優れた本だ。そこにこんな一節があった。


 「ロレーヌ地方のすぐれた裁判官レミーは八百の魔女を焼いたが、この『恐怖政治』について勝ち誇っている。彼は言う、『わたしの正義はあまりにあ まねきため、先日捕えられた十六名はひとが手をくだすのを待たず、まずみずからくびれてしまったほどである。』」(篠田浩一郎・訳)


私の正義はあまりにあまねきため、というところがなんともいえず良い。


くどくど説明せずに「優れた本だ。」と言い切ったり、
「なんともいえず良い」なんて理由を穿鑿するそぶりをまったく見せなかったり、
三人目の彼女の死よりもミシュレの「魔女」のほうが記述量が多かったり、
(一冊の本>>>身近な誰かの死ということだ)
いまからするとちょっとかっこつけ過ぎなくらい軽くて味気ない書き方をしていて、
かつての村上春樹が逃避しようとしていた「ひと昔前のしょうもない文学観」の重々しさ・うっとうしさが、
逆に鮮明になって来る気がするのは、僕がそういう読み方をしているからなんだけど、ともあれ。


ここで使われているような「遍き正義」というは、
「どこへ持っていっても通用する正義」みたいな、
なんかすごい胡散臭さのカタマリみたいなものだ。


と、考えると、「普遍的」という言葉の使い方がちょっと見えてくる。
「普遍的」と言いたい時に補わないといけない文章とか文脈がはっきりする。


まで書いて、飽きたので、うp。