で?っていう備忘録

再開です。

助動詞使用制限関連法審議委員会

古川日出男さんと市川真人さんの公開対談に先立って、
古川さんが自著『聖家族』のまん中から後ろのへんを朗読していた。
間違えて大学院進学説明会に迷い込んだせいで15分くらい遅刻した。
もう始まっていて、会場に入ると古川さんが吠えていた。
いや、まじで。比喩の意味じゃなくて。ほんとに吠えてた。
「ぎゅう・いち・ろぉぉぉぉぉ!!!!!!」って。


で、話が始まって、市川さんの話の切り替え、話題のずらしの巧みさに驚いた。
お互い思ったことをひたすら雪合戦式にぶつけ合ってても、
そんなんじゃ話が噛み合うはずなくて、
対話を成り立たせたいときちんと願うのであれば、
まず最初は、相手が喋った言葉を自分の口でまったく同じように繰り返さないと、
なんというか、「受け取ったよっ」という合図にはならないみたいだと思った。


日常会話は表面のぬるい層だけ舐めてれば終わるけど、
もう少し深いところの、熱いのとか、もっと下の冷たいとことかに、
触れたいと思ったら、まず相手の持ち球をぜんぶ投げ切らせないと、
上手く行かないのであろう、と思った。


朗読が退屈なのは、仕手のやる気不足と、受け手の準備不足のせいだと思った。


内側と外側の境界線をぶっ壊したい趣旨の話をしてくれた古川さんだったけど、
というか、「外」って言った時点で、裏概念である「内」に引きずり込まれてるんだよね、みたいな話をしてくれたけど、
そこを壊してしまうと、そこから外へ出て行ってしまうと、
もう帰ってこれなくなるんじゃないか疑惑が二年くらい前からずっとしていて、
正直、臆病になっています。
村上春樹さんの話題にもちょっとなったけど、村上さんが決して自分の臨界点を踏み越えようとしない(ように読める)のも、それ以上先へ行くと、帰って来れなくなるからなんじゃないか。


けどこっちにいてもそんなに楽しくない。ほんとに。