で?っていう備忘録

再開です。

電話出れなくてごめんなさい

『日本語史』の講義レポを書いていたら、
書き過ぎて余談になってしまった。
使い道がないので、載せてみます。


ここからは、日本語学から離れる余談だが、小説史という見方をすれば、『浮雲』の優れた点は、まず、作品自体に言文一致以前から以後への変遷がそのまま書かれているところにあるとされてきた。戯作文学に典型だった、読み手を面白がらせるための「語り」から、事物の名前や動きを丁寧に拾い上げる「描写」へ、『浮雲』の志向は変化し、最後には、どこへ向かっているのかも、誰に宛てられているのかもわからない「独り言」で終わる、という物語上の流れも、平成二十一年を生きる私たちから振り返ってみれば、明治時代に「小説」という表現ジャンルが辿った道筋を先取りしている、とされてきた。
確かに、『浮雲』では、仕事にも恋にも失敗した「内海文三」が、「何か」に追い込まれ、誰もいない部屋のなかへ閉じこもって、誰にも届かない独り言を、いつまでも呟き続ける。『浮雲』はけっきょくこの「何か」を言葉にできず、「内海文三」は「得体の知れないもの」に苦しみ、切迫感に押し潰されていく。
一方の『牡丹燈籠』ではその「何か」「得体の知れないもの」がごくあっさりと言葉にされている。「幽霊」だ。『牡丹燈籠』では、占いで「前世の因縁でもうすぐお前は死ぬ」と宣告された「萩原新三郎」が、「幽霊」に追い込まれ、誰もいない部屋のなかへ閉じこもって、和尚にもらったお守りを身体に身につけ、ひたすら「念誦」を唱え続ける。物語は「米」と「御嬢様」の「幽霊」が「萩原新三郎」の部屋に入れないことを恨めしがるところで終わる。
浮雲』に書かれる「何か」が「内海文三」(あるいは二葉亭四迷)の「内面」なのだとすれば、『浮雲』の「内面」と『牡丹燈籠』の「幽霊」は、どちらも同じ手順で主人公の青年を追い詰めていく。
「萩原新三郎」は「何か」を「幽霊」と名指し、「前世からの悪因縁」で理由付けし、「雨宝陀羅尼経」を用いて対処する。彼は「幽霊」に苦しむが、「幽霊」は彼に近寄れないのだから、「萩原新三郎」は苦しみの渦中にあっても救われている。少なくとも苦しみの所在を自覚できている。
「内海文三」は「何か」にこれといった理由もなく追い込まれ、どうすることも出来ずにいる。彼は「何か」に苦しむが、彼は「何か」を「幽霊」と名指すことが出来ないから、「内海文三」は苦しみの渦中にあっても救われない。彼は苦しみの所在を自覚できない。
「近代小説」のジャンルとしての新しさは、これまで、前近代的な「語り」から、「描写」を経て「独り言」へと辿り着いたことに求められていたが、そうではないのではないか。「近代小説」は、すでに『牡丹燈籠』の時点で成立しているのではないか。
 むしろ、最大の違いは、「語り」から「描写」へを経た「独白」への移行などではなくて、「何か得体の知れないもの」が、「幽霊」と名指されるか否か、にあるのではないか。「近代小説」のほんとうの誕生は、柄谷行人が『日本近代文学の起源』で言うような「描写の発見」や「内面の発見」ではなく、「何か」を「幽霊」と名指せなくなったことにあるのではないか。
話が急にいきなり飛躍するが、芥川龍之介が遺書で「ぼんやりした不安」と名指していたのは、『牡丹燈籠』で言う「幽霊」のことではないか? 芥川龍之介は、「内海文三」のように「何か」に追い込まれながらも、それを何とか「ぼんやりした不安」と名指すことに成功したのではなかったか? 
 「何か」。「幽霊」(『牡丹燈籠』)とか「ぼんやりした不安」(芥川龍之介)とか「否」(太宰治)とか「無意識」(フロイト)とか「死への意志」(ショーペンハウアー)とか「夜」(モーリス・ブランショ)とか「深淵」(高橋源一郎)とか「井戸」(村上春樹)とか「死にたーい」(綿矢りさ)とか「他者」(レヴィナス)とか「記号」(ジャック・デリダ)とか「りんご」(谷川俊太郎)とか名指されてきた「何か」。これまでのすべての「文芸」が出発点とし、拠り所とし、目的地にしてきた「何か」。
 もし、『牡丹燈籠』と『浮雲』の違いが「何か」の「言い方」に過ぎないのだとすれば、これまでのすべての「文芸」の違いが、「何か」との「付き合い方」の違いに過ぎないのだとすれば、「語り」や「描写」の「方法」の違いは、「近代文学」と「戯作文学」の違いは、「近代文学」と「ポストモダニズム文学」の違いは、単なる「着こなし」とか「流行」の違いだと言って差し支えなくなる。「文芸」はつねにすでに「何か」との「付き合い」から生まれ、いつもいつまでも「何か」との「付き合い」をやめられず、これまでもこれからも「何か」とのしばらく限りの「付き合い」をしていくしかないのだとすれば。
 さて、どうしよう。私はこれからしばらく、どうしよう。とりあえず、もうしばらくは、「着こなし」とか「流行」の違いを気にしていようと思う。そのうちまた何かわかるかもしれない。