で?っていう備忘録

再開です。

たまには若気の至りっぽい愚痴を

寝れぬ。生活リズムが大崩壊である。15時起床の今日。
smithsが耳元で「DJを吊るせ!」と大声で連呼しています。
小説の腹案を四つ思いついて、すべて忘れる。
腹案というよりは物語の話型だったり書き出しの一行目だったり。
けど、「こういう話題をこんな語り口で」というところさえ決まれば、
案外、小説って書けてしまう。
それは才能でも感性でもなんでもなくて、
ただ単に小説を読みなれていて、
物語を起動するための関数が
すっかりからだに身についているというだけのこと。
それだけのことで、すごくもなんともない。
プログラムを組むのがしんどくてだるいから、
それに慣れれる人が少ないというだけ。


一時間で短編をひとつ書き上げる。
既製の物語駆動エンジンに
然るべき主語と述語と目的語を入力してやれば、
もうほとんど何も考えなくても一本書きあがる。
じっさい書き手である僕は
事前にプロットもオチも山場も何も用意せずに書き始めて、
それらがはっきりした輪郭を持ち、自立した行動を開始すると、
あとは小説が勝手に諸情報を僕の脳内や本棚から吸収しながら膨張していくのを、
ただただ見守っているだけ。


こんなことしてて楽しい?と、できあがった原稿を読み返しながら思う。
もちろん書いてる最中は楽しいのだけど、たとえば、
大江健三郎が『万延元年のフットボール』を書くまで、
朝書き始めて夜に終わるような短編ばかり書いていて、
これをこれから僕(当時二十代の大江)は
何十年も続けていくのだと思うと、
そんなのはいやだ、と思った、という話を、
第一回の大江健三郎賞記念対談をはじめ、
各所で書いてたけど、そんな感じか。


もう少し、書き手である僕側からの規制とか注文を
増やしてもいいのかな。小説に対して。
現に書かれつつある小説に対して。
特に書きたいこともないし、書くべきこともない。
僕がことさら何かしなくても、
ほかの誰かが前にどこかで書いていたのを掘り起こして来て、
現状に接続できるように翻訳すれば済む話で、
あるいは僕と同時代の誰かがどこかで書いているのを
「うんうん」なんて黙って頷いてればいいだけの話で、
僕がわざわざでしゃばって我利我利に何かを書こう、
それを誰かに読んでもらおう、というのは、
ものすごい傲慢な気がして嫌になる、たまに。


長編が書きたい。
じっくり腰を据えて、きちんと人生削って、体力使って、
せめて書き手である僕自身が読み返すに足るだけの
強度とか、情報量のある、
そういう小説が書きたい。
文芸作法に忠実に従っただけとか、
小説を起動する関数を走らせただけとか、
そういうのは、もういい。
そういうサボった小説は
もう読みたくないし、書きたくない。
けどそういうのしかいまの自分には書けないので、
基本的には幻滅するしか現状を受け止める手立てがない。
ふはは。若いな、悩みが。


僕に足りないのは、経験と、知識と、体力と、忍耐と、
それから、あとたぶん愛が欠けてるのであろう。
しかも量的に。絶対量的に。はやく30歳になりたい。成長したい。


そんな年の瀬。空腹。手元に大容量の時空が欲しい。
あーまじでぜったい死にたくねえ。