で?っていう備忘録

再開です。

同時体験してしまうことの歯がゆさ

スイートリトルライズと□□□と「1Q84 BOOK3略してピストルズ(笑)」のこと。


スイートリトルライズ』を観、読んでいます。
矢崎仁司監督作を先月観て、江國香織著作を、今週。


もっとも雑に言うとすれば、夫婦がそれぞれお互いに内緒で不倫をする話。
毎日落ち着いた暮らしをしているなかなか裕福な二人で、
お互いにお互いのことを大好きなはずなのに、どういうわけか気持ちやからだがうまく相手に近づけない。
そうしてひょんなことから仲良くなった男性と(女性と)、
食事へ行くようになり夜をともにするようになり遠出するようになる。


二人は、いくつかの出来事を通して、相方への気持ちとか、自分の気持ちの揺れ動きとか、
「夫婦」という関わり方のちょっとした居心地の悪さ(好さ)とかを少しずつ知っていくのだけれども、
阿部定事件のように「好き」が暴力の形で大爆発することもないし、
不倫と夫婦をめぐるぐずぐずした関係が煮詰まってどうにもならなくなるとかもない。
二人はそれぞれの不倫相手と、日々の暮らしの息抜きのような感じで付き合いを続けていく。
そしてある時、ちょっとしたきっかけで関係が変わって、映画が(未完読だけどたぶん小説も)終わる。




こう要約するといかにも「よくありそうな話だ」と思えてくるけど、僕がそう思ってしまうのはドラマや物語を見慣れてるからで、映画が「常識から大きく逸れた愛の形」を撮っていないからだ。
ありふれているということが作品の魅力を貶めたりすることはない。

たとえば自作を読み返していて既視感に苛立つ時、
僕はいつもその作品の題材じゃなくて技法にうんざりしている。
「騙しの手口」が見え透いてる口説き方をされるとただひたすらにむかつく、という感じ。
「《恋愛、自由、平和、青春》って素晴らしい!」と文芸作品を用いて言うのはけっこう簡単だけど、
たとえば「昨日二人で食べたあれ、美味しかったね」というのをきちんと形にするのは難しい。
その差に作り手が気づいてるかどうかを僕はけっこう気にしながら本を読んだり映画を観たりしてるということだと思う。



《体験》が濃いとか薄いとか


話は逸れるけど、昨日、□□□のライブと宮沢・やつい・阿部三氏のトークをUSTで観ていて、
「やべー生で観てー」と久しぶりに思った。うっかり同時体験してしまっている歯がゆさを感じた。
たとえばボブ・ディランが「転がる石みたく」を泣きながら歌った日に僕はぜったいに立ち会えないから、
悔しいとはいえ諦めもつくのだけれど、ちょっと手を伸ばせば届きそうなところで、
なんかすげー面白そうなことをしてるっぽい感じなのを、遠くから「おー」なんて観てるのは、
すごく歯がゆい。じれったい。トークが放送事故しまくりでめちゃめちゃ面白かったせいもあって。




東京タワーとか都庁の側壁を命綱もつけずにがしがし登って頂上から下を見下ろすと痛感できるけど、
すべてを一望できる場所で人は視線(≒意識)を一箇所に集中できない。
注目することもできないし、のめりこむこともできないということだ。
「人がゴミのようだ」と言った彼は、特定の誰それではなく「人々」としてしかものを見れない。
あえて言い過ぎるとすれば、ほとんどすべてが見えるということは、ほとんど何も見えないのと同じだ。


反対に、「あなたしかみえない」場所で人は視線(≒意識)を「あなた」以外に向けられない。
それがどんなに息苦しいものであっても、目を逸らしたり逃げたりできないということだ。
どっちが好いとかいう話じゃなくて、僕がこれから何がしかを《体験》をするときに、
どれくらいの近寄り具合が適切・妥当・相応かというところが大事だということか。


dommuneで中継されてたトークライブを観ながら「ラップ聴きながら込み入った話理解するのむずい」
みたいなことを呟いてた人がいたけど、この感覚はかなり「いいとこ」を突いてる気がした。


これからは、USTを観るときは(たぶんきっとこれまでテレビや本やラジオを聴くときもそうすべきだった)
《体験》を「する/しない」ではなくて、《体験》の「濃い/薄い」に気を留めたほうがいいんだろうと思った。
キャッチコピーぽく言うなら、「なけなしの《体験》を「濃くする/薄くする」方法の考察。」



2010・4・1に東京で何が起きていたのか。


(□□□と三氏のトークライブについては、下記URLとかを参照してください。
途中から観たので全貌不明ながら、僕が見たとこの概要だけ書くと、以下のようなことが起きてました。

・□□□は渋谷CLUB QUATTROにて「会場内は2001年だ」という設定でライブ。ライブは通常禁止される携帯電話での撮影が全解禁! unitのHPを通じてライブ中継がウェブ上に流れていたと同時に、スマートフォン持ってる来場者がそこらじゅうで「生放送」をして、その映像も数百人の人が見ていた。翌日の朝もtwitter上で当日の写真がupされまくったり、昨夜の熱狂を語り合ったりしていた。

・一方、宮沢章夫阿部和重やついいちろうUSTREAM放送局「DOMMUNE」にて《虚構について》トーク。過去の映画やドキュメンタリー、□□□のライブ(!)、さらには自分たちが映っているUSTの中継を7秒遅れで見ながら、「嘘、虚構、フィクション」が「説得力」を持ったり持たなかったりするのはどういう時か、について話していた。阿部和重が『シンセミア』(自作!)を語ったり、みんなでヒトラーの演説とボブ・マーリーの音楽を見比べたり、『人間蒸発』(今村昌平)を観たり、クレーンを使った超巨大人形劇を見たりしていた。会場のお客さんは三人の話を聴きながらスマートフォンでtweetしまくってた。

・歌とトークの合間に、「なんかすごく空気の読めない人」がカンペ片手にトーク会場に乱入して「あちらの会場にメッセージを!」。「表現バカ!」とやつい氏からなじられながらも、「なんだかすごく空気の読めない人」は「ケント・デリカットの眼鏡を使ったネタをして!(byやつい氏等)」などのリクエストを三人からカンペに書いてもらい、トーク会場からライブ会場へ移動。ライブ会場では、□□□の三人(設定上は2001年在住)が、「未来のやつらが言うからさぁ〜」とか言いながらケントデリカットの眼鏡を使ったネタをしてくれた。「なんだかすごく空気の読めない人」はやっぱり「なんだかすごく空気の読めない人」だった。

・それを、自宅PCでUST/twitterを見ながら視聴していた僕。僕は、始めは小説書きながらtwitter見ながらトークライブを観ていて、途中からライブを別タブで開いたらちょうど「00:00:00」を歌ってて「おぉ!」と思った、という人だった。

・トークの題名には「多次元中継」と冠されていて、twitterの♯dommuneのTLを追っていくと、どうやらいとうせいこう氏は両会場を往復していたらしい。UST視聴者はPCモニターで、「QUATTRO(2001年)とDOMMUNE(2010年)を往復するいとうせいこう氏」を見たり、「いとうせいこう氏のライブを見ているトーク会場の三人」を見たり、「ライブとトークを同時に」見たり、していたということになる。


http://www.dommune.com/reserve/0401/(告知)
(#dommune live at http://ustre.am/dhFr )(中継。もうoffairだけど余韻くらいは感じれる)
http://bit.ly/dzxs2w(関係記事その1)
http://bit.ly/aeHpMr(関係記事その2)
http://natalie.mu/music/news/29938(関連記事その3)

スイートリトルライズ』のこと


スイートリトルライズ』を観終わってからしばらく経ったいま、僕の頭に残っている映画の場面は、
「テディベア作家とその夫+作家の不倫相手とその恋人」の四人で鍋を囲むひたすらに気まずい夜と、
しばらく腕のなかに入れてほしいと夫に頼む妻の姿と、「(夫の名前)は私の窓なの」という妻の言葉。


今日は、「(夫の名前)は私の窓なの」という妻の言葉のことを書くつもりだった。
小説に書かれ、作者と作中人物とその小説自体がそれぞれの気持ちを込めて共有している「夫は私の窓なの」という台詞が、映画に転写され、製作委員会と作中人物とその映画自体がそれぞれの気持ちを込めて共有されるということ。
これって、すごいことじゃないか?と思ったのだった。
小説の内外にあるいくつもの「気持ち」と映画の内外にあるいくつもの「気持ち」を考えに入れながら聴く/読むと、「夫は私の窓なの」という台詞は、とてつもない《濃さ》と《強さ》を手に入れられるんじゃないか?と思ったのだった。


で、それって実生活で僕がこれから遭遇する《体験》を、より面白く、貴重なものにしていくための、なんというか鍵語的な何かになるんじゃないか?と思ったのだった。あるひとつの出来事を、他の選択肢もあったのにこうとしかならなかった悔いまみれの記憶ではなくて、他の世界を常に想起させてくれる前向きな想像力のとば口として捉えれるんじゃないかと思った。


あと、『さようなら、窓』(東直子)の「窓」ってそういうことか!と気づいた。
当の小説『スイートリトルライズ』はまだ三分の一とかしか読んでない(苦笑)