で?っていう備忘録

再開です。

読みかけの本たち(数え切れない名詞)

slow man。
何が面白いのかいまいちよくわからないのに、すごく面白い。突飛な言葉遣いをしてるわけでもないし、劇的な事件があるわけでもなくて、どちらかといえば地味で無難な言葉遣いなのに、すらすら読める。さすがはクッツェー。

もちろんかれだけが特別なわけじゃない。人々は毎日手足やその働きを失っている。歴史は片腕の船乗りや椅子に座りきりの発明家に、盲目の詩人や気が狂った国王にも溢れている。けどかれの場合、脚を切り落とすことには、過去を未来から切り離したようなめったにないきっぱりしたものがあって、それは「新しい」という言葉に新しい意味を与えるものだった。この切断のしるしで新しい生活が始まったのだ。もしあなたがいままで人として、人の暮らしをして来たのだとすれば、これからは犬として、犬の暮らしをしていくのかもしれない。こう言ったのは、声、暗い雲からの声だった。(後略。私拙訳)


aminadab。
カフカっぽいのは何故かというと、もの書きとしての姿勢が同じだからだと思う。スタンスが似てるから、書くものも似る。ほとんど推敲してないんじゃないかこの人は、と思う。めまぐるしい。倒れた男が起き上がるだとか、自分がモデルになった絵を眺めるだとか、たったそれだけでこんなにも面白いのは、目のつけどころの違いと、書きながら考えてることの深さの違いに由来する。どの言葉も文脈に沿った意味の範疇に収まりきらずにざわめいていて、どの言葉もそれが指し示す物がひとつではなくて、どの言葉も読み手の記憶に静かに働きかけてきて、その言葉自身の役割や立場をどこまでも拡散させていく。この人はとても深いところから言葉を汲み上げている。この人の言う「夜」から。真っ暗で、冷たくて、何も見えない・聞こえない・感じないところから。日本でもこの人を流行らせたい。

立ち上がると、あやうく守衛にぶつかるところだった。つまり、またも守衛がそばにいたわけだ。その姿を見かけるやいなや、「あなたはどなたです?」と彼は叫ばずにはいられなかった。というのも、守衛の風采の変わりように不意を打たれ、ほとんどおびえてしまったからだ。守衛はグレイの大きな上っ張りを着ていた。その丈が長かったためか、まったくちがう理由のためか、彼は背丈がずっとすらりとしたようで、身体の不恰好さはもう眼につかなかった。それどころか、あいかわらず外貌の欠点のため醜く見えるその顔の上には、とても魅力的な繊細な表情が浮かんでいた。だが、トマはただちに、この変貌の不快な性格につよく打たれた。自分がいま眼前にしているのはあいかわらず同じ不運な男だが、その不運にはもはや謙虚なところがない。彼の外見にはなにか心をそそるところ、ひきつけられるような感じがあり、その魅力には上品なところはいささかもなかったが、それでも、(後略。清水徹訳)


to the lighthouse。
第三章の3がまじで泣ける。人が何かを書いてる渦中に考えたり感じたりしているあれこれを記述するのはすごく難しい。高橋源一郎さんがゴースト・バスターズでこれに挑戦してて、すげっ、と思ったことがある。空飛ぶスーパーマン「タカハシさん」が空を飛んでる時の「感じ」を言葉にしようとするくだりは、もろに、人が何かを書いてる渦中に感じてるあの「感じ」を見事に言葉にしててすごかった。この小説の書き手も、↓こんなふうに、書く時に考えてることを書くという、とてつもなくアクロバティックなことを見事にやってのけてて、すごい。

どこから始めよう?――それが問題だ、どの場所に最初の筆を入れようか? キャンバスに一本の線を引くということは、無数の危険に身をさらすことに他ならないし、それに続いて取り消し線不可能な決断を矢継ぎ早に繰り返さざるをえなくなることでもある。頭の中ではしごく単純だったものが、実践の中ではたちまち複雑になり果てる。ちょうど崖の上から見守る者には整然として模様を描いていた波も、現実に波間を泳ぐ者にとっては、険しい谷底と泡立つ波頭に引き裂かれた混沌そのものと映るのに似ている。しかし危険は冒されねばならない。絵筆は下ろされねば。(後略。御輿哲也訳)