offのつもりが
なんだか全身0FFであります。
人と会って喋ろうとかなにか書こうとかっていう意志が薄弱になっとります。
言語野にlockがかかってるっぽい感じ。
大量の語彙と記憶に溢れた巨大な海に接続するための回路が不通な感じ。
咽喉にフタがされてる感じ。
友達が「私黙るキャラになりたいんですよ!」と熱弁していた。
「黙りたいんですよ!」って前もってゆっといてくれるあたりが気遣いだなぁと思う。
気分のムラが発言量のムラに直結するわかりやすい性質の人であるらしく、
といって気分が上々な日はあまり多くなく、上々な時間も長くは持たない、という私。
ブログをpublicな発言手段として利用しないのが、アメリカと比較した時の日本のブログの特徴である、
といういまやもうありきたりになってる言い草がある。
ブログの素人の書く文章の、
下手さとか話題の小ささとか文章作法への顧慮のなさとか自意識の過剰さとかを目ざとく指摘して、
「人前でそんなとりあえずで書いた駄文垂れ流して恥ずかしくないのか!?」
という驚きを口にするおじいちゃんが、文芸界にはけっこういる。
ブログは日本だとあくまでsemi‐publicな言論の場になってる。
というか、一部の著名人を除けば、ほぼprivateに使っている。
そこに違和感を感じてる人もいるし、
privateな生活を「公開」する場っぽくなってるmixiにどっぷりハマると相当疲れそうだけど、
「書くこと」自体を公的で特権的な行為だと見なす人なんてもういないと思う。
行為自体ではなくて、「いつ・どこで書くか」が特権性を確保するための拠り所になってると思う。
しかも、かなり脆い拠り所。
ブログできわめて優れた批評や洞察や創作をしても、
spamの餌食になったりするだけで、
お金がもらえたり、偉い人が褒めてくれたりすることはない。
面白いケータイ小説は個人の趣味で書かれるし、
自主制作はyoutubeとかニコ動で(どんなに優れた作品でも)垂れ流しだ。
文字が読める/読めないという意味での識字率が八割を超えたのは
いまから百年以上も前のことだ。
その時は、(ちゃんとした)文章が書ける/書けないという意味での識字率は低かった。
長屋の旦那に代筆を頼む某、なんて古典落語もある。
いまや、書ける/書けないという意味での識字能力で、書ける層が特権化されることは
(日本では)ほとんどなくなったと言えるかもしれない。
いまや、書ける/書けないという区分じゃなくて、
すごく書ける/そこそこ書ける/ちょっとは書けるという区分での勝負が始まってると思う。
(つづく)