で?っていう備忘録

再開です。

寺山修司>筒井康隆>大江健三郎>古井由吉(年齢)

「今日、何食べた? 3」(よしながふみ)を借りて読む。
漫画を買い揃えるような経済的余裕はうちにはない。
みんなが持ってるからといってテレビを買い与えるような親でもない。
給料日は遠い。


というわけで、読みながら思ったことを、かいつまんで書く。



・漫画って、省略は楽だけど要約は難しいジャンルだと思った。
 だから「料理作り」は打ってつけの話題。


・料理の美味しさを「ババーン!」じゃなくて「ほわーん…」と描いてて和む。
 美味しさを(グルメな人が)「語る」のではなくて、
 料理手順を省略せずに描いて「示す」ところが、漫画的(対小説比)。


・「にまー」とか「シーン」とか「……」というコマを
 ちょいちょい入れて、間を作るのが上手い。
 と思って桜沢エリカとか魚喃キリコを読んでみたら、
 みんな上手かった。
 だから、間の作りやすさって、漫画という表現ぜんぶが持ち得る長所なんだろうな。


・あと、話題の量の調節が上手い描き手さんだと思った。
「ゲイカップルの日常」「弁護士の日常」「美容師の日常」「四十路過ぎ男子の日常」「料理の日常」。
 二人がお互いの気持ちをそれとなく察しあうところが読みどころのひとつ。
 次の日ちゃんと謝るところとか、さりげなく相手好みの料理を作るとか、大人の恋愛である。
 中原昌也と比較するのはぜったい違う(笑)


簡体字と正字の書き分けは、書き物の「公/私」の区分けに起因していた。
 古くは仮名と真名の書き分け。正字と簡体字の書き分け。
 崩し字と清書の書き分け。簡体字と略字の書き分け。筆記と速記の書き分け。
(そういえば原稿の「清書」って言わずに「添削」って言うよね、いまって。
 大江健三郎は原稿を清書する人でお馴染みだったけど、
 保坂和志は考えながら書いて、ダメなセッションは何度もリテイクしている。
 舞城王太郎はたぶんほとんど書き直してない)


「書くこと」が大衆化してからは、「学校/家庭」が要因するようになった。
 学生時代に臨席の女子が「なんかくりんとした字体」やギャル文字の開発に日々勤しんでいたのはその例。


 京極夏彦平野啓一郎の文体を見ればわかるように、
 いまでは、漢字・ひらがな・alphabetなどの使い分けは「趣味」の問題。
「ぜんぜん」とか「いわゆる」みたいに、漢語由来の語がひらがな表記され出したのも、
 ワープロ普及後の時代に表現者たちの「こだわりどころ」が変わったから。
「難しい言葉を知ってる」=「教養」ではなくて、「言葉の使い分けができる」=「教養」ということ。


・キャラの顔のデフォルメ具合で感情や場の空気を表すのは、
 絵画発‐漫画経由‐AA着の描画法なんだろうけど、
 ……何書こうとしてたか忘れた。簡体字の考察↑なんか書いてるからだよ。

そーなんだけど
でもさあ
旅行の話して
2人で行きたいねって
言いたかったの!!

ホントに行くか
どーかは
別にして!!


という最終コマのケンジの一言で物語は切れる。
よしながふみ自身の意図かどうかはわからないし、
わからなくてぜんぜん好いんだけど、
この一言はフィクションの本質を鋭く照射してしまっている。


難解な口調を敢えて採用するなら、その実現可能性の是非に依らず、
現前から/への逃避・離脱・出発・接近への欲望が、人を虚構へ駆り立てるのだ。
芸術の精度・強度・持続力が問題になるのはその為だ。
作者の意志や姿勢が時として糾弾や賞賛の標的になるのもそのその為だ。


この漫画のことを喋るのにもっとふさわしい言い方をするなら、
「できるかどうか」なんて関係なくて、
「いま・ここ」からちょっと離れたいor近づきたいという気持ちが、人に漫画を描かせるのです。
だから人は、漫画に細やかさや力強さや<続く>を求めるのです。
書き手の意志や姿勢が褒められたり・貶されたりするのもそのせい。



サッポロ一番」を買いに行ってきます。