で?っていう備忘録

再開です。

萩尾望都=村上春樹(年齢)、大島弓子=金井美恵子(年齢)

講義の試験で「戦後文学」について書くことになり、
ジョルジュ・ペレック的手法で日本文学史を記述していたら、
(と書くとかっこいいけど、小説家の名前を羅列していっただけ)、
いろいろ面白いことがわかった。書き上げたレポートは、どこかに載せるつもり。
このブログか、文芸会の季刊誌か、新人賞投稿用か。

ついでに、高橋源一郎論も書き始めた。
西田亮介という方がtwitterで論考募集をしていて、それに触発されて。
出すかはわからない。卒論でもいい。〆切は13日までらしいので。
一部だけ、公開。文フリ用の原稿でもいいな。

一見すると、第四期の高橋源一郎の小説は<高濃度に凝縮された教養を元手にして、極端に純化・精製された言葉を作り出し、改行や改章を頻繁に大胆に行うという書きぶりを捨て、「長い歳月が過ぎたあと、誰にも疑われることなく信じられるようになってしまった物語。いつまでも性懲りもなく「力」を持ち続け、人々の考え方や行いを知らず知らずのうちに操り、抑え込んでいる幻想」を、次から次へと軽く・小さく・薄くしている。いつもとぜんぜん違う使い方をしたり、徹底的にきちんとした使い方をしたりして。小説は、「政治」や「性愛」や「歴史」を、バカにしたり、イジったり、ぎゅってしたり、同情したりした。話しかけたり、一緒に遊んだり、喧嘩したり、無視したりした。その度に、他人が書いた言葉や語り口や名前を、あからさまに借り続けてきた。「一見ふざけてるかのように見せかけて、実は、小説の未来を、日本文学の未来を、書くことそのものを、悩み、苦しみ、憂えている。」「本音」と「建前」の境界線、「文学」と「文学ではない」の境界線にこだわり続けている。表向きは、明るくて軽やかで楽しげな「固有名詞」や「引用」や「模倣」が大騒ぎしているのに、というかだからこそ、読んでいると、暗くて重くて悲しい「   」や「  」や「  」の叫び声が聴こえてくるような気がして、泣ける>と読めるし、そう読まれている。そしてその読みは正しい。高橋源一郎を古いほうから順番に読んでいく、というやり方で醸成される物語に沿って喋った時、その読みは正しい。これから私は、それとはまた別の文学空間を召還して、高橋源一郎の小説のことを書くつもりだ。