で?っていう備忘録

再開です。

円城塔あるいはEJTもしくはCCTについての感想

(1)著者

円城塔あるいはEJTもしくはCCTというより軽妙洒脱な自己言及装置か。
SF小説家。東大の大学院で博士号をもらったみたい。
執拗な自己言及と巧過ぎる語戯を苦にした饒舌が持ち味。
一文単位の圧縮率がすごく高い。高すぎるくらい。
「ひょっとしたらきみには何を言ってるのかよくわからないかもだけど、SFだから許してー」という作風。
「ウリポと日本のSFを混ぜたら大爆発した!」という書法。


wikipediahttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E5%9F%8E%E5%A1%94


「それらの説話の提唱者に従うならば、鳥が歌い、魚が泳ぎ、馬が笑い、川には蜜が流れる地で人々は思いつく限りの関数を好き放題に拵え、思いつくことができない関数さえも限定なしに利用できていたのだということになるようですが、言っている意味はよくわかりません。」(『さかしま』より抜粋)


「実数濃度とあれふの間隙をついた侵攻に、整数が陥落一歩手前まで迫られたことは、今でも当局者の体を震撼させ続けています。」(『さかしま』より抜粋)


宇宙の中から論理が発生したとする立場は非常に異端的なものですが、微視的視点においては連続性が存在すること、ウルに見られるような凍結領域においてはむしろその属性が支配的となりうることは、残念ながら実証されてしまっています。(『さかしま』より抜粋)


(2)作品

『さかしま』
「読むからに嘘くさい、突拍子もない、宇宙的な何かを論じた論文の注釈」という小説です。
文章の上手さに舌を巻き、話の飛び散りに慌て、語法の意味不明さ加減を歓迎すると、楽しめます。
(掲載サイト)http://www.dot-anime.com/tb/a_songs/
最近出た『後藤さんのこと』に収録。行くところへ行けばサイン本がまだ買えるみたいです。


オブ・ザ・ベースボール
文学界新人賞受賞作。空から落ちてくる人を畑の真ん中に立ってバットで打ち返す仕事をしている「俺」の話。
バットでの打ち返しはその村のレスキュー隊の仕事で、成功率は限りなく低く、仕事をしているのかしていないのかもよくわからない。
バッター・イン・ザ・ライ。饒舌が控えめなので、読んでる最中に迷子にならなくて済むから、味見にはオススメ。


いわゆるこの方程式に関するそれらの性質について
恋愛小説が読みたい人にはこれ。とある方程式について書かれた、優しくてちょっぴり哀しい、ハートウォーミングなショート・ストーリー。とでも要約すればいいんだろうか?Z文学賞受賞作。


Self-Reference ENGINE
自伝らしい。未読なので何も言えないが、題名の邦訳は「自己言及装置」。小松左京賞最終候補作。


烏有此譚(uyushitan)』
自伝らしい。独身男性の部屋らしい場所の執拗な描写から物語が始まる。好評売出し中。


(3)感想、『さかしま』の。

・SF用語でおしゃれして既存の小説論に茶々を入れてる、言うなれば「小説論々」のようなものだと思いながら読みました。
が、この小説自体にそれを禁ずる(というか心配してくれてる)ような記述があって、なんというか、終始八方塞がりでした。


・相当量に至るまで「本」を濫読したような人の脳内では、「小説」という言葉は「世界」とか「宇宙」とか「時‐空間」とか「言語」とか「論理」とか「人」とかいう言葉ととまったく同じことを指示するようになります。

そういう人たちにとってみれば、「本」に書かれている言葉が何を意味しているのかについて考えることは自殺行為に等しい。
言葉と言葉の連鎖が脳内でとめどなく発生し続けて、思考についての思考についての思考がひたすら膨張し続けてしまって、
自分がいま何をしているのか、「本」を読んでいるのか、「恋」をしているのか、「性交」しているのか、

そもそも生きているのかすら、わからなくなってしまうのです。

特に、「愛」とか「政治」とか「自由」とか「孤独」について書かれてるっぽい「本」なら猶更です。
江国香織を言語論的暗喩の表出として読んだり、青木淳悟を政治的プロパガンダとして読んだり、はるな愛を実存主義哲学の実践者だと思ってしまったりするようになります。
存在論的、郵便的』(東浩紀)が恋愛小説にしか見えなくなってしまったり、『論理哲学論考』が中二病患者のヒステリー症状に思えたり、
大学試験のための模擬試験で出題された高次方程式の解法を、いつの間にかスリル感たっぷりの冒険小説として読んでしまったりするようになります。

つまりは病気なのですが、ここまで来るともう「○○病」なんて言葉は「△△猿」とか「××市□□町」といった事務手続き上の分類くらいにしか思えなくなってしまうのです。というか、自分の名前自体が何かしらの病名ではないかとか、思えたりもし始めるのです。そういう人が、自分と同じような症状の人向けに小説を書くと、きっと『さかしま』みたいになるんでありましょう。


(4)感想2

ちょっと文学史っぽいな話をすると、一般に「世界文学史」として需要されている物語に、こんな一節があります。


フランツ・カフカマルセル・プルーストジェイムズ・ジョイスは、小説にどれだけたくさんの「もの」や「できごと」を「ことば」を詰め込めるかという試験の、最も優れた達成をやってのけた人だ。「足し算」で小説を書く時代はもう終わりだ。それ以降の小説家たちは、彼らの仕事からおこぼれを頂戴して生きるか、「書くこと」を諦めるしかない。「すべて」を書くなんて、人には無理だったのだ」
この物語は、たぶん五十年くらい前ならそれなりに信頼性のある製品として世間を流通していたのだと思います。
というのも、こうした「足し算」で小説を書く人たちに対して、殴りかかったり、異議申し立てをしたり、無視したりした小説家が、後の世代に現れたのです。


たとえばサミュエル・ベケット。彼は、師匠&親友だったジェイムズ・ジョイスの真逆を行って、小説からどれだけたくさんの「もの」や「できごと」や「ことば」を減らせるか、を試験した人だと言われています。彼は「持つ」「居る」「在る」という言葉が嫌いで、彼の小説や戯曲は、文芸から知識や教養や教訓や意味や価値など、凡そ考えられる「足し算」的な要素を、潔癖なくらいに削ぎ落とすことによって、成立しています。文芸から凡そ考えられる「すべて」を「引き算」したら、何が残るか、を一生懸命追求した、ということです。つまり、ひと言でまとめるなら、「「すべて」を書かない」は書けるか、という試験。「「すべて」を書かない」を、「透明」と言ってもいいですね。「透明」を書けるか。


結果がどうなったかと言うと、簡単に言ってしまえば、
「「すべて」を書かない」は無理で、どこまでがんばっても、人には「限りなく「透明」に近いブルー」しか書けないらしい。


で、これもまた別の一派なんですが、こんな風に考えた人がいました。
「すべてを書く」も無理、「すべてを書かない」も無理だ、とするなら、
「書く」を書くとか、「書けない」を書くとか、「書きたい!」とだけ書くとか、「書きたくない!」だけを書くとか、
そういうのなら、できるんじゃない?


日本の書き手でもそれを意識的にしていた人はたくさんいます。
有名なところでは、金井美恵子氏や村上春樹氏や高橋源一郎氏などがそうですね。


で、最近の流行りとして、こんな人たちも文芸をするようになっています。ひと言で言えば、
「「小説は○○を書けるか?」という問いに答えがあるかわからないし、無いっぽいから、
 私たちは「どうやって読ませるか?」を考えますね」という人たち。
それから、「じゃぁ私たちは、「誰に」読ませるか?を考えますね」という人たち。
他にも、「じゃぁ俺は、どうやっても「読めない」を書くぜ」という人とか、
「他にやることがいくらでもあるでしょうが。そんな、答えの出ないっぽい問いにしがみついてるなんて、
 カッコ悪い・気持ち悪い・うっとうしい」という人とか、
「別に僕じゃなくても誰でも書けることとか、誰にでも読めることとかを、書くよ、僕は」という人とか、
「ワカラナイヨ?」という人もいます。


で、こういう文脈でものを考える人というのは日本にはたぶん数万人くらいいて、
そういう人の目から見ると、円城塔氏の小説というのは、こういうことを言っている小説だ、ということになります。




「この小説はこの小説だ」



わかりやすい自己言及装置ですね。
「「クレタ人は嘘つきだ」とクレタ人が言った」関連問題に近い。
「私は「私は話す」と話す」みたいなぐるぐるにも近い。
この一文を読んだ人の感想として出てくるのも、
「この小説は、この小説なのかぁ〜」という、感想なのか何なのかよくわからぬひと言でありましょう。


だから、こう言えるのかも知れません。
円城塔氏の小説は、この、どうしようもなく狭くて閉じた、言葉を使う以上は避けては通れないのかもしれない一文と、がんばって向き合おうとしている小説だ。」
この表現は、「この小説はこの小説だ」の「この小説」という言葉を、
円城塔氏の小説」と「この、どうしようもなく……ている小説」に置き換えることで、成立したものです。
どれくらいの人にとってどの程度適切な言い方なのかどうかはわかりませんが、僕はそう思いました。


この感想を別の言葉に言い換えるとすれば、
「とてつもなく広い狭さは狭いのか? とてつもなく狭い広さはどこまでも狭くなれるのか?」