で?っていう備忘録

再開です。

『泣きたい気分』(アンナ・ガヴァルダ)は「買い」

・十代後半頃から、何かを「欲しい」と思うときって、実は気のせいなんじゃないかと考えている。「欲しい」とだけ思おうとすると即座に脳が「のかなぁ……」なんて加筆してくる。そしてその加筆はいつもだいたい正しい。実は「欲しいもの」なんてそもそもどこにもないのだ。そんな気がするだけで。


・『スフィンクス』(アンヌ・ガレタ)と『泣きたい気分』(アンナ・ガヴァルタ)を交互に読んでいる。といっても、前者は80%未読、後者は80%読了している。それぞれの本が求めてくる速さで読んでいるから、一方はさくさく進むし、もう一方はぜんぜん進まない。

河岸と直角に交わる狭い道でちょっと混みスピードを落さなければならなくなった時、私達は「エデン」の前を通り、入り口にまだ灯がついているのが眼に入った。私の眼の動きが一瞬そこで止まったのに気づいたティフは、中に入って知り合いに挨拶して、一杯飲ませて貰おうと言いだした。車を降りる私はやたらに気が急いて、踵の高い靴をはいたティフは追いつくのに苦労していた。中に入ってボーイ長とか会計係とか、クロークの女にそそくさと挨拶すると、ティフは私を舞台の裏の方に連れていった。『スフィンクス』(吉田暁子訳)より

赤ちゃんを欲しがる女って皆、バカだ。そう、おバカさん。
妊娠したとわかるとたちまち、堰を切ったように感情がほとばしり出る。愛、愛、愛の洪水。
そのあとはもう、流れっぱなし。愛情のたれ流し。
愚かな女たち。


彼女もみんなと同じだ。妊娠したと思っている。できたかも。できたみたい。絶対とまでは言えないけど、きっとそうだと思っている。
何日か待ってみる。核心できるように。
プレディクターなどの、薬局で売ってる妊娠検査キットは五十九フラン(約千円)だとわかっている。ひとり目のときそうだったと思い出す。『泣きたい気分』(飛幡祐規訳)より


・書き手が生まれ育ってきた場所も、見聞きし、感じ、考えてきたことがらも、それぞれの本を読みそうな人の数もタイプも、ひとつとして同じところがないように見える二つの小説。
二つの小説をたとえばひとつの文学賞の選考で読み比べ、どちらをその回に賞めるか決めなければならないとなったとき、唯一許せる判断基準というのは、けっきょくのところ、選考者の「好き/嫌い」しかないように思える。
文章の上手さとか、物語の良し悪しとか、小説作法との付き合い方がどうとか、そういうのを拠り所にして小説に優劣をつけるのは、選考者の立場や美観、思考の癖などといったのを表明しているというのに過ぎなくて、そういう風に表明された言葉というのはどれをとっても「信頼ならないもの」なのではないかという気がする。


・ここまで読んだ感じだと、『スフィンクス』は「(何かを)しっくりくる言葉にする」にかなりの労力が割かれていて、読み手が肩の力を抜いて小説のなかへ入っていけさえすれば、濃密な「感じ」の連打に幸福にまみれられるんだと思う。一方『泣きたい気分』は「楽しい!」とか「もうイヤ!」という(書き手や登場人物たちの)「気持ちを爆発させる」ことに注力していて、読み手は素直に語りかけられる言葉を浴びていれば、さっぱりした「感じ」の連なりにすっと乗っていける。


・『泣きたい気分』が文芸初心者でも気楽にさっと読み通せるということは、小説がなかだるみしないような注意が端々まで行き届いているということでもある。という見方をすれば、たとえば「愚かな女たち」という一行は、筆を滑らせてるというのではなくて、書き手が読み手に親切になっているのだ、とも読める。


・『スフィンクス』が文芸玄人でもじりじりした遅い読みしかできないのは、読み手に少し立ち止まっての歩み寄りを求める書き方をしているからでもある。という見方をすれば、「視線」や「匂い」にやたらとこだわるこの小説は、読み手そっちのけで書き手が世界観に酔っている、とも読めてしまう、


・どっちが好いとかいう話ではない。


・アンナ・ガヴァルダは『ピエールとクロエ』という小説も書いていて、そういえば『四十日と四十夜のメルヘン』(青木淳悟)に出てくる「私」がチラシの裏に書いてるファンタジー小説の主役二人が「ピエール」と「クロエ」だった気がする。読んでるのかなぁ青木さんも。この本。そしたら感想とか教えて欲しいな。


・一人で小説を書くときにぼくがいちばんイヤなのは、ぼくが一人で小説を書かなければならないということだ。ぼくが一人で書いた小説は、ぼくがどんなに頑張っても「ぼくが一人で書いた小説」にしかならないから、つまらない。驚きがない。「書くこと」だけでは小説は仕上がらない。