で?っていう備忘録

再開です。

古くてダサくて使いづらいものの代表格と言えば

日本の戦後文学史ですよね、もちろん。
先月からちょいちょい書き始めた「私家版:日本の戦後文学史」。
卒論の題目にするつもりだったのですが、飽きました。
やる気が回復するまで、しばらく放置しておきたいと思います。

理由と言い訳

・「別におれが書かなくてよくね?」と思ってしまいました。
・「文学史」はたまねぎとは違って煮ても焼いても食べられないので、
 自宅に常備しておく必要がまったくありません。
・自家製の「文学史」でなくても、他人が作った「古い文学史」でやりくりできそうです。
(多少使い心地は悪くても、馬鹿だなー、見落としてるなー、強引だなー、
 とイジりながら読めばいいだけのことで、苦労して書くまでもない)


僕のこの態度は、お金をもらって仕事をするプロだったら「あるまじき態度」でしょうが、
二週間実家へ帰省する大学生の態度としては、まぁ許されてもいいんじゃないかと思います。
じっさい、「第一次戦後派」とか「第二次戦後派」という見立てが機能してないことは誰の目にも明らかなのに、
「使いづらいよねー」なんて愚痴るばかりで、きちんと書き直そうとした人がいないのはなぜなんでしょう?

感想

日本の普通教育を受ける子供たちのなかには、
中高生の頃に、この「使いづらい文学史」を鵜呑みにさせられて、
文学と名の付くものが大嫌いになった、という人がおおぜいいるのではないでしょうか。


というわけで、以下は、先月末にあった日本戦後文学についての講義レポの抜粋です。
「歴史」を自明視せずに自前で用意しようとする態度は褒められますが、
「変遷モデル」を自明視してしまっているのが残念です。
現状肯定しようとする意志が強すぎたせいでしょう。
まだまだ若いですね。もう少し勉強しようと思います。


「歴史」を書くときに気をつけたほうがいいのは、
材料の質でも方法の明確化でも意志の維持でもなくて、
作り手がちゃんと「賞味期限」と「使い方」を明記しておくことだと思いました。
なるべくなら「おいしくいただける歴史」を作りたいものです。

前説

けれどもそろそろ「文学史」を書き直す時だろう。
私が欲しいのは「純文学」の歴史でもないし「大衆小説」の歴史でもない。
そもそも「文学史」自体欲している人などもういなくなるのかもしれないが、
私がいま欲しいのは、細く頼りない一本の線で危うくつながっているような純度の高い「歴史」ではなくて、
いまを生きる私たちを重たく抑えつけるような伝統と進歩の「歴史」ではなくて、
私たちの足元をぐらつかせないもう少し懐の深い「歴史」、
それなりに使い勝手も好くて、持ち運びに便利な「歴史」、もう少し目配りの効いた「歴史」だ。

愚痴

「文学史」はいつから、拠って立つ足掛かりではなくて、逃げ出しはぐれるべき監視の目になったのだろう。
「文学史」はいつから、継承すべき使命となり、打倒すべき宿敵になったのだろう。
まずはここから語りなおそう。
長い時を経て消耗と疲労にまみれた「戦後文学史」を、可能性の源泉、方法と材料の貯蔵庫として書き直すのだ。
そのためにまずは、いままでなんとなく信じられてきた「戦後文学史」を大急ぎでおさらいしておくことにする。

一行でわかる戦後文学史(古い用法)

従来の文学史観では、日本の戦後文学史はこんなふうに要約される。
戦中派は戦争をきちんと書かなかった/書けなかった(丹羽文雄志賀直哉、武者小路実篤)。
第一次戦後派は「戦争」の「渦中」で見たこと/感じたことをとにかく書いた(大岡昇平野間宏)。
第二次戦後派は、後遺症的に記憶にフラッシュバックしてくる「戦争」について、考えながら=別の言葉に言い換えながら書いた(三島由紀夫山田風太郎大西巨人)。
第三の新人は遠い「戦争」の記憶と近くにある「生活」の実際との板ばさみのなかで書いた(小島信夫遠藤周作吉行淳之介)。
内向の世代・学生の世代は「生活」と「政治」の渦中で「私の言葉」を作り出そうとした。「遠い昔の戦争」と「いま・ここでの生活」と「頭の中の妄想」との折り合いをつけるために(谷川俊太郎大江健三郎筒井康隆寺山修司)。
大人が作った「政治」「私の言葉」「平凡な生活」「道徳」を蹴飛ばした(蹴飛ばせた)反抗の世代(中上健次村上春樹高橋源一郎笠井潔村上龍北野武保坂和志)。
うまく抗えない・そもそも抗わない・「私は私、社会は社会」・「政治」が語れない・「私の言葉」が見つからない・無抵抗・不服従の世代(島田雅彦山田詠美青山真治町田康庵野秀明江國香織)。
終わらない日常のなかで「内面」と付き合うためには、マジで生きるか、ネタに生きるか、芸に生きるか、だらだら生きるか、いっそ、死ぬか(舞城王太郎綿矢りさ東浩紀青木淳悟、前田司郎、中原昌也)。

これから


これからは、こんなふうに、固有名詞や党派名を抽象化したひとつの変遷モデルとして記述される。
「渦中にいた人々」は「それ」をきちんと書かなかった/書けなかった。
「帰ってきた人々」は「それ」の「渦中」で見たこと/感じたことをとにかく書いた。
「考え直した人々」は、後遺症的に記憶にフラッシュバックしてくる「それ」について、考えながら=別の言葉に言い換えながら書いた。
「忘れようとした人々」は遠い「それ」の記憶と近くにある「これ」の実際との板ばさみのなかで書いた。
「ほとんど覚えていない人々」は「これ」と「それ」の渦中で「私の言葉」を作り出そうとした。「遠い昔のあれ」と「いま・ここ」と「頭のなか」との折り合いをつけるために。
「話だけは聴かされてきた人」は大人が作った「それ」「私の言葉」「平凡ないま・ここ」「決まり」を蹴飛ばした(蹴飛ばせた)反抗の世代。
「何も知らない人々」はうまく抗えない、そもそも抗わない、「私は私、それはそれ」、「あれ」が語れない、「私の言葉」が見つからない。無抵抗・不服従の世代。
「そもそもそれに関わっていない人々」は終わらない日常のなかで「それ」と付き合うためには。マジで生きるか、ネタに生きるか、芸に生きるか、だらだら生きるか。いっそ、死ぬか。

「それ」を用いた変遷モデル

この変遷モデルは「それ」へ代入される語彙が変わるたびに繰り返されるし、きっと何度でも繰り返されるべきなのだろう。
この変遷モデルに自覚的で、且つ積極的にそれを引き受けている書き手たちは常に一定数いて、自覚的に無視する書き手もいて、無自覚な書き手も常にいるだろう。
どちらがいいかどうかはその場その場の流れで決まるが、日本の戦後文学について言及するなら、
「それ」は、「書けない」「書きたくない」「書くことがない」「書くしかない」の四項に収斂させられる。
この四項を無視するか、立ち向かうか、気づかないかの三通りの応答がこれまでなされてきた。とはいえ「それ」は書き手によって異なる極私的なもので、
平成二十二年現在に立って、ジャンルや作品の出来不出来を考慮せずに見れば、
そもそも「それ」を共有できていたという理解は、乱立する小集団のなかでの小さな「合意」に過ぎなかったのかもしれないとすら思える。
とすれば、私たちがこれから小説を書き継いでいくべきだとなったとき、まず真っ先に手をつけるべきなのは、「それ」を共有する「合意」を集めること、あるいは「それ」を考えないようにすること、もしくは先行作家が書いた文章を読み替えて、

「秋幸は、その働いている体の中がただ穴のようにあいた自分が、昔を持ち今をもってしまうのが不思議だった。昔のことなど切って棄ててしまいたい。いや、土方をやっている秋幸には、昔のことなど何もなかった。今、働く。今、つるはしで土を掘る。シャベルですくう。つるはしが秋幸だった。シャベルが秋幸だった。」(枯木灘)


 たとえばこんな文章を読み替えて、「昔のことなど何もなかった」と自分に強く言い聞かせながら、いま・ここでしていること自体にのめりこみ、吸い込まれ、同一化することに専念することではないか。かつて使われたいた言葉を、いま・ここでも流通できるように噛み砕き、消化し、再生させることではないか。というか、いままでだってずっとそうしてきたのではないか。(後略)