で?っていう備忘録

再開です。

「ポストモダンが(円城塔に)殺された!」

『SRE』(EJT)読了。がっつりした感想は、後日。


今回は、掲題について詳説します。
ポストモダンが殺された!」
これは、本書『Self-Reference Engine』を9割ほど読み終えたところで抱いた感想です。
とはいえ僕はそもそも、SFと名のつきそうなものを大して読んでなくて、
伊藤計画氏や冲方丁氏の名前もつい数カ月前に知ったような、幼いSF初級者ではあるけれど。


まずは「ポストモダンとは何ぞや?関連問題」の話を。とはいえ「ポモぞや問題」に深入りするつもりはないです。「ポモぞや問題」というのは一般に、「プレモダン→モダン→ポストモダン」という変遷を軸にして悲しく語られる。けど、ごくあっさり、「明治→大正→昭和→平成」みたいな年号の一種として捉えてしまったほうが賢い。


「大きな物語の死」とか「人間の死」とか「歴史の終焉」とか、そういう専門用語で悲しく語られる物語を大人たちから延々聴かされて、鵜呑みにしちゃって、悲しい気持ちで日々を暗く生きている若者がネット界隈では少なくないみたいだけど、もう少し視野を広げると、「ポモそや問題」というのが比較的最近の流行語に過ぎないことがわかる。たとえば末法思想とか、メシア思想とかと一緒で、人の不安をやたらと煽る人の格好の商売道具にされることがままある。


「ポモぞや問題」が熱い美術史界隈とか文学史界隈から一歩離れて、たとえば宗教史とか産業技術史とかから見たら、「ポストモダン」って「大正デモクラシー」とかと大差ない。雑に矮小評価するのも考えものかもしれないけれど、もう10年もすれば、てかもう今の平成生まれの若者からしたら、「ポストモダン」は「昔流行った古いファッション」くらいの価値しかなくなっちゃうんじゃないかな。


てことで、ここからは、「殺された!」の話を。
非常に大雑把なまとめになっちゃうけど、たとえば絵画って、西洋視点だと、20世紀までに「風景・人・物→色・形・線→感じ・動き・ネタ」みたく抽象化してったのね。で、その間にだんだん画面から人間が退場していったんです。なのに文芸は、「物語→話→出来事→場面→考え→呟き→思い→感じ→瞬き」と抽象化してったのに、
いつまでも人間が消えない!と思われていた。


で、いまやご老体のポストモダンさんの一派が最近「……もう無理ぽ」とか言って、逆に敢えてやけくそで画面を人間でびっしり埋め尽くそうとし始めた(日本だとその最先端にいたのが中原昌也氏とか佐藤友哉氏とか)。


そしたら円城さんが「人、消せるっぽくね?巨大知性体のみで出来なくね?」という小説を書いちゃった(笑)という現状。三十年くらい前からカルヴィーノとかペレックとかが始めてた仕事をかなりの精度で日本語で実現した、ということになります。


で、僕がここで言う「人間」というのは、小説の「外の人」か? 「中の人」か?
つまりは、「書き手」なのか、「作中人物」なのか?


んー。「書き手」がまじで消せたら芸術としての役目は一応終わりなのかなー。産業革命で織物職人が絶滅したみたいに、芸術ジャンルとして化石化しちゃいます。成長停止。ゆっくりさようならを唱える支度。誰でもできることに価値や楽しみを見いだす物好きってそういないからね。手織物のプロとかもう要らん、つーか「保護対象の文化財」だし、的な。


そうしてそのうち「読み手」すら消えちゃうと、マイナーな言語の地方方言みたいに、絶滅する。石油みたいに別用途で燃料利用できるとかになるまでは、資源としても、休眠。


だからたぶんこれから前線で文芸やりたい人は、日曜日の趣味でするのでなければ、他分野への転用可能性も考えるといいのかも。それか「文章理解力とか情報処理能力が身につきます!」とか嘘吐くとか(笑)


ちなみに「自己言及装置」は日本の文芸界ではまだ珍しいけど、フランスの文芸界では数十年ほど前からその存在が知られています。レーモン・ルーセルとかモーリス・ブランショとかそう。


そういえばジョルジュ・ペレックを私が好きなのは、ペレックが彼ら以降の作家だからですね。「Wあるいは子供の頃の思い出」なんて、泣けますよ。親思いなペレックの熱い気持ちに心打たれて。


んで、小説内の「人間」がほんとうに全く消えたとなるとどうなるかと言いますと、円城さんたちの小説の延長線上で、小説が単なるコミュニケーションツール化するんですね。書き手と読み手の腹のさぐり合いor小説語を用いた楽しいお喋り。平野啓一郎さんとか東浩紀さんはそっち方面での小説の可能性を考えている。


それか、逆に歴史化する。主役が「時代」とか「文明」とか「情報集積体」とか「人生」とかいうでかさになる。橋本治さんとか、ミラン・クンデラとか、小島信夫とかは、そっち方面での仕事が巧い。そしてそれはもう狭義の小説の枠を越えている。


そうなると別に小説じゃなくてよくね?ってなる。で、まぁ、気づいた人から小説を卒業してくんだろうな。「大人の遊び」の宿命(苦笑)とまぁ、こう考える人が一定数越えると、芸術ジャンルとしても廃れます……。


こう言うと、「じゃぁなんでお前は小説書いてんだよ!?」と問われるかと思います。
答えとしては、こうなります。


「思う」のはまぁ出来てますけどぉ、「する」がまだ出来てないしぃ、「思う」すらまだ出来てない子とかいるじゃないすかぁ、そういう子らにうまく教えてあげたいしぃ、てか「遊び」で学んだことが「仕事」に生きると思うしぃ、「遊び」って鬱ってる子の「気晴らし」になるじゃないすかぁ……、と生意気を言うことになります。だって現状、知ったかぶりするだけで何の実績もない若者Aな自分だし。


あー。なんか出世欲が最近やたら強いな!まだまだ若いな!