で?っていう備忘録

再開です。

あぁ普遍的な水曜日!(ノ_<。)

「普遍的な日本語」というのは、「いつ・どこで・誰が読んでも分かる日本語」のことだ。


例えば平成二十一年から100年前というと、太宰治埴谷雄高松本清張が生まれた年で、二葉亭四迷が死んだ年だ。そのころ朝日新聞で連載していた夏目漱石の『それから』は、こんな風になってる。

「でも、お父さんはきっとお困りですよ」
「お父さんには僕がじかに話すから構いません」
「でも、話がもうここまで進んでいるんだから」
「話がどこまで進んでいようと、僕はまだもらいますと言ったことはありません」


読める。ふつうに。辞書を引かなくちゃならないとしたら、「構いません」の読みくらいだろう。
どうやら結婚関係で父親を困らせている息子が誰かと話しているのが分かる。
けれどもこれをもう少し遡ると、

あふ坂の関守にゆるされてより、秋こし山の黄葉見過ごしがたく、濱千鳥の跡ふみつくる鳴海がた、不尽の高嶺の煙、浮島がはら、清見が関、大磯小いその浦々、むらさき艶ふ武蔵野の原、塩竈の和ぎたる朝げしき、象潟の蜑が苫や、佐野の舟梁、木曽の桟橋、心のとゞまらぬかたぞなきに、猶西の國の歌枕見まほしとて、仁安三年の秋は、蘆がちる難波を経て、須磨明石の浦ふく風を身にしめつも、行々讃岐の眞尾坂の林といふにしばらく杖を植む。草枕はるけき旅路の労にもあらで、観念修行の便せし庵なりけり。


読む気がちょっと萎えてしまう。
引用はいまから二百年行かないくらい前に活躍した、上田秋成からなんだけど、
「心のとゞまらぬかたぞなきに」とか「草枕はるけき旅路の労にもあらで」とか、平成二十一年のとは違う口調で、
濱千鳥とか須磨明石とか、いまではよく分からない日本語が使われている。
さらに最近の小説から引用を続けると、

今とここで表す現在地点がどこでもない場所になる英語の国で生まれた俺はディスコ水曜日。Disとcoが並んだファーストネームもどうかと思うがウェンズデイのyが三つ重なるせいで友達がみんなカウボーイの「イィィィィハ!」みたいに語尾を甲高く「ウェンズでE!」といなないてぶふーふ笑うもんだから俺は…いろいろあって、風が吹いたら桶屋が儲かる的に迷子捜し専門の探偵になる。俺のキャディラックのボディには俺の名前と事務所の住所と電話番号の上に『ベイビー、あんたが探してんのは結局あんた自身なのよ』って書いてある。


『ベイビー、あんたが探してんのは結局あんた自身なのよ』みたいなクサい台詞や、
「『ウェンズでE!』といなないてぶふーふ笑うもんだから」みたいな、
上品さの欠片もない一節を好意的に理解できないと、この文章は面白く読めない。
この人の小説の読み手は現に二十代の男女や若作りしたい五十代であって、
休日にゴルフへ行ったり、民主党に投票しようか迷ってたり、
株式市場の動向が気になったり、湯船につかると思わず大きな声が出てしまう人には、
ちょっと読みづらいんじゃないかと思う。
この小説は平成二十一年に出版された舞城王太郎の『ディスコ探偵水曜日』なんだけど、
なんというか、一部の愛好家にすごく愛玩されそうな、ちいさな歪みを体現してるような気がする。


というように、「普遍的な日本語」なんて無菌・無風な理想状態での特殊解に過ぎない。
標準語があるじゃないかという人もいるだろうけど、そんなあなたにとって、たとえば、


(ノ_<。)と(T_T)と(T△T)の用例の差は説明不要だろうか?


「辯」と「辮」と「辨」と「辧」の用例の差は説明不要だろうか?


一つ目は日本の若い女性の間では標準語だし、
二つ目は日本の年取った仏教漢文学者にとっては標準どころか常識だ。


あぁ「普遍的な日本語」の胡散臭さといったら!


(とはいえそんなこと明治改革期の国語学者や文芸人は重々承知だったんだと思う。ものすごく雑な言い方をすると、彼らは、現実では言葉の違いのせいで分かり合えなくても、想像の世界では同じ言葉で通じ合いたかったんだろう。それがたとえ、不完全に仮構されたものであっても)