で?っていう備忘録

再開です。

オフサイドトラップを有効機能させるためには

(続き・思い出せるところから)

あ:だから基本的に90年代に前線で書かれていた小説たちって、ぎりぎりの緊縮財政なんですね。阿部和重さんとか中原昌也さんみたいにクリシェを使うとか、笙野頼子さんとか保坂和志さんみたいに手持ちの現金でめいっぱい贅沢しようとか。町田康さんなんて初期は「お金がない」を全速力で書きまくってたような人だろうし、逆に前線の窮状を敏感に嗅ぎ取ってた平野啓一郎さんみたいな人もいて。

い:とにかく言葉が足りてなかった時代ですね。

う:そう。それで、面白いのが、似たような現象が大東亜戦争が始まる少し前にも起きてるんです。あの頃は横光利一が純粋小説論を書いたりなんかして、とにかく、みんな次の小説をどうしたらいいか悩んでて、行き詰ってた。西欧からも外貨は入って来ないし、内需は大衆小説にごっそり持っていかれているし。

え:第四人称ですね(笑

お:だからうろ覚え文学史的な見方だと、戦時中=文学も停滞期みたいに思われがちなんですけど、違うんですよ。実はそのちょっと前にもうどん底は来ていて、むしろ戦時中は次の世代が伸びてくる土壌が耕されていた。太宰治が顔を出すのもその頃で、中島敦なんてのもいて、ぜんぜん不作じゃない。同じように、平成不況をみんなが肌に感じ出した頃ってはじつは文学はもうどん底は過ぎていて、その最底辺にいたのが実は、中原昌也さんだったんじゃないか、という。

か:小説やめちゃいましたしね。

き:ところがセロ年代に入ってちょっと変わるんです。なんというか、みんな、いきなり饒舌になる。古川日出男さんだったり、舞城王太郎さんだったり、西尾維新さんとか、遡れば京極夏彦さんとか、みんな初めは、あるいはずっと、言葉を大量に惜しみなくこれでもかと詰め込んで詰め込んですごく濃い小説を書いていた。「ふつうの女の子の悩み」に緊縮財政下だったらあり得ないくらい贅沢に言葉を注ぎ込んでできたのが『インストール』でしょう? 『平成マシンガンズ』も『野ブタをプロデュース』も、「仲間内にひとりはいそうなあいつ」の輪郭を鮮明に描き出すためだけに、旬の言葉を豪勢に盛り込んで作られてる。それくらい、ひと言ひと言が空っぽだったのか、とにかく、みんながみんなして、もう一回言葉にちゃんと熱意を込めていこうとし始める。

く:柴崎友香さんとか、福永信さんとか、長島有さんはどうですか?

け:さっき言った舞城さん達みたいな、なんというか、「情熱派」みたいな人が、どうにかしてクリシェとかパロディの呪いから抜け出そうともがいてたのと、たぶんやってることは同じだと思うんですが、なんでしょうね。西尾維新さんなんか読んでると、本格ミステリに対する、愛着と裏返しの憎悪と、それから、ほんとに底なしじゃないかってくらいの怯えを感じます。ちょっと意地悪な読み方をすると、怖いことを忘れていたいから、大声を出す、みたいな小説に読めてくる。佐藤友哉は赤裸に「びびり」を書いてますけど。それに比べると、柴崎さんとか福永さんとかは、なんでしょうね、前世代の仕事をおおむね引き継いで、それに落とし所をつけようとしてるんじゃないでしょうか。最近いろんなところで書き始めている岡田利規さんの小説も、読んでいると、言語の最終清算をしているような気がします。

こ:言語の処理というと、青木淳悟さんなんてどうですか?

さ:彼は、もう、読んでも読んでも言葉しかない笑 ほんとうに、周到な人だと思います。尻尾をつかませない。

し:尻尾というと?

せ:共感できるところというか、解釈の一致点というか、理解しあえる部分というか。読んでいて、あぁ、この小説のことが分かった、という時があるじゃないですか、あれは別に作者の本心に触れたとかじゃなくて、小説の尻尾をつかまえた、という言い方のほうがふさわしい気がします。

そ:青木淳悟さんにはそれがないんですか?

た:いや、むしろあからさまなんですよ。堂々と全裸で歩いてるから、むしろそういうファッションなんじゃないかと思ってしまう。みんな優しいから、そうじゃなくて、すごく奇抜な服装だって受け止めてますけど、まったく本を読んだことない人が、たとえば『このあいだ東京でね』を読んだら、素直に「この小説家さんは最近家買ったんだね」とか言うんじゃないか。

ち:演劇界とか、映画界から来ている人達は、どうですか?

つ:「横断文学」という便利な言葉が高田馬場界隈のフランス文学界には流通していて、それを使いたいですね。伊藤比呂美さんとか蜂飼耳さんとか、東直子さんとか、園子温さんとか、名前を挙げたらきりがないくらいだし、一部の賞をもらっている人たち特有のあれこれじゃなくて、もちろん単に文芸界全体が相互扶助しないと立ち行かないだけなのかもしれないんですけど、コクトーとか寺山修司とかガルシア・マルケスがしていたような、一箇所だと居心地が悪いから、というのではなくて、そもそも一箇所でじっとしている感覚が、ここ十年くらいの文芸界にはないんだと思います。

て:ラノベとか、ケータイ小説とか、あと批評畑もアニメへ行ったりゲームへ行ったりヤンキーへ行ったり、右往左往ですからね。

と:活版印刷然り、大量印刷機然り、ワープロ然り、読み書きのツールが根こそぎ変わるような時代は、ソフトウェアもかなり流動的になっていたみたいですから、インターネットと携帯電話の普及がそろそろひと段落するかという現状ですから、もう数年は、こういう、あれもこれもの時代が続くんじゃないでしょうか。

な:では、次は、どうなりますか?

に;ぐちゃぐちゃした時期が十年くらい続いて、みんな我に帰って、「そうだ、いままでしてた仕事に戻らなくっちゃ」なんて、本業に、いちばん得意な仕事に戻るんじゃないでしょうか。僕は、その突端にいるのが、今回芥川賞をもらった磯崎さんだと思っています。それから、円城塔さんにも頑張って欲しい。小説は、やっぱり描写、書いて書いて書きまくるのだ、という所にいちど戻るんじゃないでしょうか。

ぬ:なんというか、前線はあっち行ったりこっち行ったりでせわしないですね。

の:海堂さんとか東野さんとか、伊坂さんとか、それから森見さんとかは、そういう流行りものに振り回される人たちとは一歩距離を取って書いているじゃないですか。石田衣良さんなんて最強の後衛守備隊もいますし。

は:小説読んでます!っていう茶髪の少年少女とかに訊くと、だいたい好きな作家は宮部みゆきとか、村山由佳とか、石田さんとか、有川さんとかですね。

ひ:チームとして機能している証拠ですよ。あとは、もう少しディフェンスラインを高く保ってくれたら、フォワードの取りこぼしが『決壊』につながることもないだろうし、オフサイドトラップもかけやすいんですけどね。

ふ:サッカーの比喩がいきなり出てきましたけど、とすると、ゴールキーパーは誰になるんですか?

へ:そりゃぁ、我らが漱石大先生でしょう。いい加減、井原西鶴とか滝沢馬琴みたいに、忘れられた小説家になって欲しいものです。

ほ:商売、上がったりですからね。。。