で?っていう備忘録

再開です。

「文体」について話しながら大洪水は底辺に流れる

『大洪水』(ル・クレジオ)と『底辺女子高生』(豊島ミホ)を一章ずつくらい交互に読んでいる。
どっちの小説も、「世界」とか「社会」とか世間で言われている人やものや言葉の集まりに、近寄りづらさを感じてしまった男女が主役だ。
一方の小説は、

立ちあがったり横たわったりしながら、私はからだをこわばらせ、戸外を眺める。額を冷たいガラスにあて、閉じられたよろい戸の隙間から、通行人が歩いていく長いカーブした路を見る。紫色の影が地面に落ちている。女たち、男たちが黙って歩き、滑り、呑みこまれ、消えてしまうのは、その影の上である。街灯の灯や、商店のウィンドウの光があたりに映っている、動物の総毛のような闇は渋々と退いてゆく。いたるところ、チカチカする光源があらわれている。
それらは死んでいることを、私は知っている。疑う余地はない。私の外部にあるものはすべて死んでいるのだから、それらは死んでいるのだ。屍衣のような光暈が、通り過ぎる彼らのシルウエットをつつむ。まるで偶然に、もはや詠まれていない新聞をひろげ、そのなかに、印刷された名前や色褪せた写真、肩書、日付、数字、使い古された頭文字を見出すような気がする。


といった言葉で書かれていて、もう一方の小説は、

玄関から出て、冷たい空気のなかを少し歩いたら、校舎の横の空を星がぴゅっと流れて消えた。流れ星が消えても、空には満天の星がちかちかしていた。
「こわい」
とサヨちゃんが言った。
「こんなに星がきれいだなっておかしい、きっと明日地震が来るんだ」
サヨちゃんの言葉に、私は漠然と「そうかも」と思った。こんなにもきれいな世界は、きっと明日には崩れてしまう。崩れてしまう前の輝きなのだ。そう考えても無理がないくらいの、静かな夜空が私たちの前に広がっていた。


世界は崩れなかったけれど、私の「屋上」はそれから間もなくなくなることになる。予備校にも、大学にも、そしてもちろん社会にも、私は「屋上」を見つけ出せなかった。
あれは多分、高校時代にしかないものだ。素敵でフラットな、自由で特権的な、あんな場所は。


という書き方で書かれている。


この一目瞭然な差が「文体」というやつで、それは、
句読点の位置とか文の長さとか、語尾処理とか、語彙を難しくor易しくするとかとか、
そういう単純な操作で矯正できるようなものではないと思う。


どちらかと言えばそれは知らないうちに身につけた「習性」のようなもので、
パンツは右脚から穿くとか、上着のzipの締め具合とかと同じで、
自意識をいくら過剰にしたところで、せいぜい自分の癖を気にできるようになるくらいだろう。


だから、世間でよく「今回の小説はちょっと文体変えてみました〜♪」
とか平気でゆってる呑気で無考えな小説家もどきのことを、
ぼくはちょっと信用できない。


同じように、「○○氏の今回の文体は……云々」
とか書く文芸時評のしていることも(=ぼくが青木淳悟の小説について書く時したことも)、たぶん大した意味はない。
そんなもの指摘したところで何が生まれるでもないし、それは「批評」じゃなくて「感想」と言った方がきっとふさわしい。
街で見かけたある人の鼻が高いとかアゴが長いとか胸が大きいとか言うのと大差ない。


ex)
谷崎潤一郎の文体を形成しているのは異様な程の句読点のなさ、一文の長さなのだが……」
「さっきの女子高生脚めっちゃ細くね?」


いろいろあってあなたが今夜だけ付き合うことになった女子高生を、あなたが選んだのは、顔だけ、声だけ、服装だけ、性格だけ、ではないだろう。
あなたは、顔も、声も、服装も、性格も、すべてをぼんやり漠然と眺めて、なんとなく選んだのだろう。


小説もそうで、あなたがその小説を好きになったのは、句読点の位置とか文の長さだけではないだろう。
句読点の位置も、文の長さも、主題も、副題も、裏題も、語彙から選ばれる単語の種類も、その頻度も、話題の切り替えのタイミングも、描写への注力度も、語尾処理の無難さも、すべてを漠然と感じながら読んで、なんとなく好きになったのだろう。


それなのに、読書感想文とか、書評ブログとか、文芸時評を書く時、せいぜい二つや三つ特徴を指摘するだけして、
もう俺はこの小説のすべてを語りきったぜ、みたいに振舞うのは、
正直、「手抜き」じゃないかと言いたい。


「私の読みなんて浅くて狭くて一方的な思い込みなんですけどぉ」
なんて前置きするくらいなら、初めから無理して書かなきゃいい。
そんな中途半端なことするくらいなら、初めから静かにひとり楽しく一冊読みきったほうが、ぜんぜんいい。


でしょ?