で?っていう備忘録

再開です。

「『眠る男』が勝ち取った「強さ」を『ワラッテイイトモ』はどうして手に入れられなかったのか?」への前置き2

(先々週のつづき。筆者は執筆前に『日本文壇史』(伊藤整)を読み、強い感銘を受けています。第二章に出てくる「幸徳秋水」がすごく愛くるしい。彼は文系大学ならどこにでもいそうな愚痴り屋で夢見がちで感傷的な文学青年で、彼を取り巻く若い「社会主義者たち」の姿が、僕には、いま東浩紀氏を取り巻く「アーキテクチャとかBIとか論者たち」の姿とだぶって見えた。今日もまた本題に辿り着けないかもしれない。)


両作はともに、都会で平凡な孤独を生きる若者が、それぞれ異なった関心領域・苦悩・境遇のなかでずぶずぶと暗闇へ沈んで行くまでを、それぞれ異なった見方で描いて行って、どちらも「もうどうにもならない」終わり方をする。


なのに、観終わったあとの印象がぜんぜん違った。
ワラッテイイトモ』を観終わったときは、陰湿ないじめやねちねちした愚痴をうんざりするほど見聞きしたあとみたいにげんなりした。
『眠る男』を観終わったときは、誰も知り合いがいない言葉も通じない居場所もわからない町にたった一人だけ取り残されたみたいな肌寒さがあった。


これが僕個人の感想であればまぁ話の帰結はすんなりいく。二本の映画は僕には同じことを違うやり方で表現しているようにみえた。他の人がそうかはわからない。だからこの前のブログのエントリを読んだ人が、もし休日や仕事の合間に暇があれば『眠る男』『ワラッテイイトモ』を観てみて欲しく、もっと言えばその感想も聴いてみたい。無視されたらまぁそこで終わりで、僕の感想は僕の感想止まり。いつの間にかまた話題が変わる。とまぁ、こうなると思う。


だからここからは「でもそうじゃないかもしれない時」のために書く。二本の映画を観終わって、僕とよく似た感想の人がいるかもしれない時のために書く。


余計なお世話かもしれないし、たかだか二本の映画を観たくらいで大げさに騒ぎすぎかもしれないけど、プライベートで何かあるすごく大きな事件に出遭って、それまでの生き方や芸風や人前でのキャラ設定が揺らぐくらい大きな衝撃を受けてしまい、その立て直しのためにじたばたしている人、というのが仮にどこかにいて、たまたまこれを読んでいたとする。したらばその時僕はその人の「立て直し」の手がかりとか気休めとか息抜きになるようなことを書きたい。というかもっと言えば僕は自分が好きな作家の作品をそんな風に観てきた。たかが安物の賞味期限つきの娯楽なのに、あたかもそこに生きる上で大切な・役に立つ・真実の何かが描かれている! みたいに観てきたのだ。


やっ、正直、自分でもうっとうしい。なんというか、夢見がち。
でもその、なんて言えばいいんですかね。そういう、夢見がちな人同士がやり取りする専用の言葉遣いだったり、物語の作法だったりって、あると思うんです。あってもかまわないと思うんです。実現できるかどうかとか現実にそうかどうかとかはさておき、空想の・非現実の・大げさな表現じゃないとうまく伝えれない・受け取めれない気持ちとか、手触りとか、歯ごたえとか、そういうのってあると思うんです。


それをなんか重たいとかしんどいとか役に立たないとか意味がないとかつまらない(のはちょっと問題だけど)とかで(特に表現を専らにする人が)否定したりとかするのは、なんというか、身勝手なふるまいな気がするんです。


で、いま僕は何を書こうとしてるかというと『ワラッテイイトモ』は「すごい」作品だけど「ずるい」作品で「キライな」作品だということで、『眠る男』は「すごい」作品で「誠実な」作品で「好きな」作品だということなんですが、えーと。他の人にもちゃんと伝わるように詳しく・地道に説明するのがまだちょっと難しいのですが、とりあえず「私的過ぎて伝わらない」語法だけで書くとすると、


ワラッテイイトモ』の気持ちとかすごいわかるし、そこまで追い込まれてたらそう言いたくなるのもしかたないけど、「言うな」とはいえないけど、でもそういう言い方されるとちょっと嫌になってしまうよ。もっと、『眠る男』みたいに、少し落ち着かせてから言うとか、渦中からずっと遠く離れてからにするとか、して欲しい。その言い方だと、誰も何も受け止められなくて、けっきょく誰も得しないと思う。


となるんだけど……、誰宛てに何語で喋ってるんだ僕は(苦笑)
もう少し落ち着かせてから、渦中からずっと遠く離れてからまた書き直します。