で?っていう備忘録

再開です。

「『眠る男』が勝ち取った「強さ」を『ワラッテイイトモ』はどうして手に入れられなかったのか?」への前置き


ワラッテイイトモ」(K・K作 2003年)
キリンアートアワード2003に応募された作品。内容と手法の卓抜さから当時の選考委員に驚愕・絶賛されたものの、著作権法等への抵触が考慮され、本作のために新設された審査員特別優秀賞を受賞、上映会でも修正版を放映することになったという、いわくつきの作品。各篇の部立ては「はてなキーワード」を参照のこと。以下、簡単な紹介。

フジテレビ系列バラエティ番組「笑っていいとも」1999年12月第4周の月〜金曜日放送分の映像及び作者の身辺記録だけを材料に、
ニコニコ動画でいうMADを作成するように、映像のカット&リピートを執拗に駆使して、一篇の短編映画に仕上げたもの。
作中の「私」は、「どうしてこんなことをするのか自分でもわからないが」と愚痴りながら、『笑っていいとも』の映像をパソコンでひたすらに「編集」していく。


たとえば、ほとんど意味を為さないほど細かく映像や音声を切り刻んだり、同じ情景・場面・台詞を何度も何度も反復したりする。「タモリ」や「テレフォンショッキングのゲスト」の発言や笑い声や吐息を断片化して、並び替えることで、「私」や観客への嘲笑や罵倒句に転用したり、女性の性的な吐息を再現したりする。「タモリ」と「私」の対話がカットの切り替えによって偽装されたりもする。

合間に、「新しいことなんてもうできないのではないか」「既存の作品を再構築してるだけじゃないのか」「こんなことを続けることに意味があるのか」といった要旨の「私」の独白が挿入される。独白は映画史の蓄積を現在にのしかかる重たい抑圧のようなものだとして悲観的に絶望する。


『さよなら、絶望先生』(久米田康治)に典型的な、見え透いた嘘と皮肉で故意に自虐するような「乾いた笑い」はない。あまり出来のよくない美少女ゲームのように、「平凡な毎日に絶望している青年」のもとへ「非凡で特異な明るい美しい女性」が突然やって来ることもない。『HIPHOPの初期衝動』(口ロロwithいとうせいこう)のように、過去の再生を熱狂的に楽しむような明るさもない。『勝手にしやがれ』(ジャン・リュック・ゴダール)のように「大都会で洗練されたかっこよさ」もない。


とはいえ一篇きっちり観通せるだけの作品を作り上げる技量はずば抜けている。描かれているのは、極端に肥大した「私」の暗くて重たい気持ちばかりだから、素晴らしい風景描写や、あっと驚く筋書き、キャラの魅力、登場人物同士の人間関係のゆれ動き、などなどを目当てに観ようとすると、弾き飛ばされてしまう。観る側にも「見方のチューニング」が求められるから、人を選ぶ作品ではある。


「明るくて賑やかで楽しいお昼の番組」と「どこにでもいそうな平凡な映画好きの日常」を材料にして、暗く湿った重たい気持ちを抱えたまま、なんだかどうしようもなくなっている青年の「内面」を非凡な透明度で見事に映像化しており、凡百に作られ凡百に流通しては凡百に消えていく膨大な数の映画たちに対する「批評」足りえている。というところが褒めどころであろう一作。


逆に、そもそも映画は誕生以来「大量生産・大規模流通・大量消費」を力にして成長した芸術なのだから、この映画の嘆きは「映画」を自明視した安易で幼い未熟者のワガママじゃないか!とか、「映画史」とか「映画の作法」を共有したもの同士でしか楽しめない「内輪の愚痴」じゃないか!といって貶す向きもあろう一作。


【参考サイト】
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20090916
(筆者は↑ここで作品の存在を知った)
http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20030927
http://d.hatena.ne.jp/ululun/20080706/1215316158
http://happysad.seesaa.net/article/1329019.html



「眠る男」(バーナード・ケイサンス(で読み合ってる?)作 ジョルジュ・ペレック原作 1974年)
1974年ジャン・ヴィゴ賞受賞作らしい。本邦未公開。
(同賞はフランスの映画賞。若い監督が従来の映画の「型」を崩したり遊んだりしながら作った映画によく送られる。)
たまたま受講していた講義の担当教授が体調を崩されて、たまたま代理に立った非常勤の先生が講義でペレックの紹介をして、そのときたまたまその方が本作『Un homme qui dort』をフランス(?)から取り寄せたばかりで、たまたま「観たい人いたら、貸すよー」と仰り、たまたま僕しか名乗り出なかった、という経緯で、僕は今作を観た。一緒に『エリス島物語』の映画版も貸してくれたのだけど、そっちは小説のほうが面白かった。

昨日の夜、「そう、ぼくは『眠る男』(ジョルジュ・ペレック原作)を英字幕版で観たのだった。そして度肝を抜かれたのだった。「私」と「あなた」が混濁することで生じる不協和音にぞくぞくしたのだった。あんなに不味そうな赤ワインの出てくる映画は他に観たことがないのだった。」とtweetした通り、僕はフランス語がわからないペレキアンなのだけど、だからこそ初見のときは「よし、画をみるぞ!」というつもりで観た。さっき「ワラッテイイトモ」を観なおして気づいたけど、この映画、カラーにして陽気な音楽を背後に付けたらそれだけで観光PVになるんじゃないか。


話が始まってしばらく、大都会の一室に暮らす青年の、平凡で無味乾燥な日々の暮らしを、この映画は、静かに追いかけていく。青年は朝起きると電気ポットの電源を入れ、顔を洗い、歯を磨き、沸かしたお湯でコンデンスミルク入りコーヒーを飲み、着替え、家を出、授業を受け、昼食にワインとステーキとポテトフライを食べ、帰宅し、日に数度かは洗面器で靴下を洗い……といった日々の泡を(ただ羅列してもほとんどの人には退屈だから)、こまめにカット割りをしたり、そのたびにカメラの寄り具合をちょこちょこ変えたりして、面白く撮っていく。


映画は主に三つの層から成り立っている。青年の日常を丁寧に撮り続ける画面。青年のことを「きみは……」と呼びながら解説していく女性の独白。日常生活音をサンプリングして作ったような、単調で味気ない、けどどこか落ち着かないミニマルミュージック。各層をそれぞれ独立して視聴したらさすがに退屈な映画になるのだろうけど、音が映像に遅れたり、独白が映像に先走ったり、音と独白が奇妙に同調したり、この三つの層を混淆させながらひとつの映画として提示することで、なんだか妙に見入ってしまう作品に仕上がってしまっている。派手な音楽も、多彩な映像も、魅力的な台詞も使わないのに、複合芸術としての「映画」の醍醐味を楽しめる。そこが上手い。


太宰治村上春樹や彼らから言葉を借りて表現された大量の「青春」や、色川武大作品の愛読者にとってはむしろ食傷気味な話題なのかもしれないけれど、この映画の青年は、どうしてかは作中でもよくわからないままに、身の周りの「事物」にまったく興味を感じられなくなってしまう。何か新しいことや変わったことをしようという気力もなくして、人付き合いも避けるようになり、意図的に生活を単調で簡素なルーティンワークの繰り返しに落とし込み、友達と会うことも、繁華街で騒ぐことも、学校へ行くことも、本を読むことも、音楽を聴くこともせずに、ただ、日々を過ごすようになる。深夜に外出し、街をひたすらに歩き回り、映画を見、自宅で独りトランプをし、そんなことをしたところで何も起こらないのに、町中の細かいことを数えに数え、名指し、目に留めていく。


そんな青年の「心と身体の動き」を、淡々と台本を読み上げるような口調の独白が、代弁するように「きみは眠る」「きみは怖い」「きみは死にもしないし、狂いもしない」と語っていく。そうして映画が、同じシーンを反復したり、同じ動作をまた別の撮り方で撮ったり、同じ台詞を繰り返したりするなかで、青年は平凡な孤独に追い詰められ、閉じこもっていき、そして……という映画。


『さよなら、絶望先生』(久米田康治)に典型的な、見え透いた嘘と皮肉で故意に自虐するような「乾いた笑い」はない。あまり出来のよくない美少女ゲームのように、「平凡な毎日に絶望している青年」のもとへ「非凡で特異な明るい美しい女性」が突然やって来ることもない。『HIPHOPの初期衝動』(口ロロwithいとうせいこう)のように、過去の再生を熱狂的に楽しむような明るさもない。『勝手にしやがれ』(ジャン・リュック・ゴダール)のように「大都会で洗練されたかっこよさ」もない。


とはいえ一篇きっちり観通せるだけの作品を作り上げる技量はずば抜けている。描かれているのは、都会に暮らす独身の若者にありがちな凡庸で退屈な孤独。青年の意識(=「私」)と独白が代弁する「きみ」の微妙な乖離。深遠な思想や、爽快な「型」破り、「作家」の魅力、登場人物同士の人間関係のゆれ動き、などなどを目当てに観ようとすると、弾き飛ばされてしまう。観る側にも「見方のチューニング」が求められるから、人を選ぶ作品ではある。


自我の不毛な悪循環(私が大嫌いな私が大嫌いな私が大嫌いな……私が大嫌い!)や身にならない自嘲・自虐や他愛もない記号との戯れを回避しながら、ある時・ある所に生きた一人の青年の等身大を、控えめな味付けと丁寧な調理できちんと形にした秀作。


逆に、「味が無さ過ぎる」「冷たい」「メッセージがない」「笑えない」「苦悩してない」ということで嫌われもしそうな一作。


【参考】
http://perec.jp/
(若いペレック研究者の方が運営しているウェブサイト)
『眠る男』(海老坂武訳、晶文社 1970年)
『人生使用法』(酒詰治男訳 水声社 1992年)
(『眠る男』とほぼ同じ設定の青年が、オペラ関連記事の保存をするバイトにまつわる物語のなかに書き込まれている。ペレックが自分で自分のコピペをしているということですね。)