で?っていう備忘録

再開です。

「『源氏物語』と『あさきゆめみし』の差異の考察について」について

新年、ということは平安時代で、平安時代ということは、『源氏物語』だ。
という思いつきの連鎖を説得力ある形で誰かに伝えるのは難しくてしんどいからしないけど、
あまり好きではないし有益だとも思いにくい講義向けに書いたレポートを、
そのままお蔵入りにするのもちょっとなんか気が治まらないので、upしてみる。


両作には差異(ずれ)しかない。
作られた年、複製された年、作品が出来上がるまでの流れ、製作に携わった人の量と質、作品に関わる他の著作を含めた文化全体の量と質、想定されていた読者、発表媒体、実際に読んだ人の量と質、読まれ方やその精度、姿勢、時期、目的、読後の評価、感想、研究成果や経済効果の記述、参照、引用、模倣、剽窃、それらすべてに費された時間、労力、物語、書法、語り方、言葉遣い、扱う記号の種類、記号操作の手つき、精度、効果、誤解可能性、理解可能性、
すべてが異なる。



厳密に言えば、異なる時・空に存在するすべての事物に「ずれ」しかないことは自明であって、それらを逐一すべて取り上げてすべて丁寧に指摘し、すべてを確実に記述することはそもそも不可能である。



二つの作品の「ずれ」について考察するすべての研究が理想的に達成されるとすれば、それは、二つの作品のすべての「ずれ」が余すところなく完全に記述された一篇の途方もなく分厚い書物の完成に他ならない。A、Bという二つの作品の「ずれ」を完璧に記述した一篇の書物を仮にZとするなら、原理上、ZにはAとBの本文がそっくりそのまま丸ごとすべて書き写されることになるだろう。



だから、不可能とはいえ一応はZを完成させるための一助とならなければならない本稿にも、本来であれば、AとBにまつわるすべてのことが書かれなければならない。少なくとも、AとBの本文をそっくりそのまま丸ごとすべて引き写さなければならない。もちろんそんなことは不可能だ。それでもなお殊更にすべての「ずれ」について厳密に考察し、それを記述しようするのは、始めから勝ち目のない無益な戦いを虚しく続けるようなものだ。そんなことをしても役立つものは何も生まれない。



だから方法を変える。



すべての作品のあいだには「ずれ」しかなく、その「ずれ」のすべては記述できないことが自明だとすれば、二つの事物の間から際限なく汲み出せるだろう「ずれ」のなかでも、(誰か/何かにとって)とりわけ重要な「ずれ」についてだけ記述したほうがいい。ということは、「ずれ」についての考察は、書き手が意識する/しないに関わらず、「あれを書き、これは無視する」という排除と選別の上で成り立つのだと言える。何かの「ずれ」について考察する時は、まずこのことを念頭に置かなければ、「考えが足りない、さぼっている」と言われてもしかたがない、ということになる。



それからもうひとつ。「ずれ」について思考できるということは、それらが「近い」ことを書き手がそれとなく感じているということだ。二つの「もの」の「ずれ」が考えられる時、二つの「もの」は、書き手が「ずれ」を認識できるくらいには「近い」。たとえば、「愛」と「恋」の「ずれ」について考える時、書き手はほとんど無自覚に、「愛」と「恋」を近しいものとして捉えている。「恋」と「シカゴ」の「ずれ」を考える人はほとんどいないし、「やさぐれ」と「しかのみならず」の「ずれ」を殊更考えようとする人はまずいない。そんなことをしてもたいしたことが生まれそうにないからだ。二つの「もの」のあいだから汲み出された「ずれ」についての記述が、それなりになにか別のことにも通用しないのでなければ、ただひたすらに「ずれ」ばかりを書き並べてもしかたがない。読むのに疲れるだけだ。



それでは、『源氏物語』と『あさきゆめみし』の「ずれ」について考察する時、どこに着目すればいいのか? 何に注目し、何を無視すればいいのか?
真っ先に思いつきそうなのが、『源氏物語』を本文として、『あさきゆめみし』に書かれている人物、台詞、話の流れを照らし会わせるという作業だ。講義で配られたレジュメに範囲を限って言うなら、たとえば、『あさきゆめみし』で「大夫の監」が「どぎゃん意味な?」と言う台詞(レジュメ4枚目、3コマ目)と、『源氏物語』で「大夫の監」が「待てや、こはいかに仰せらるゝ」と言う台詞を照会して、原文では「待て、これはなんと言っているのだ」と問う「大夫の監」の言葉を、『あさきゆめみし』は簡潔に要約し、方言に翻訳することで書き換え、「大夫の監」が熊本の人間であることを強調しているのだ、と言えなくもない。同じ作業を繰り返していけば、

本文何頁何行目「(本文中の表記)」
漫画版何頁何コマ目「(漫画版での表記)」
両者の類似と差異「(両者の類似・差異についての論述)」


というようなメモが大量生産できる。しかしこれは、ただ『源氏物語』の本文に『あさきゆめみし』の台詞を帰属させているだけだ。この作業が最終的に完了した場合に書き手が得られるのは、たとえば「犬」と「dog」の用法の類似・差異などを記述した一冊の分厚い辞典のように、『源氏物語』の語彙体系と『あさきゆめみし』の語彙体系の類似・差異を記述した一冊の大して役にも立たない分厚い辞典と、過ぎ去ってしまった少なくない時間、それから徒労感くらいしかない。同じように、「原作にはない部分」とか、「原作には書かれている表現」を列挙しようとして、『源氏物語』と『あさきゆめみし』をひたすら見較べてもしかたがない。



多くの読者に漫然と読み流されてしまうせいか、あまりに当たり前過ぎてほとんど意識されていないようだが、漫画は絵と字とコマ割りの適当な配置によって成立している。『ゴーマニズム宣言』(小林よしのり)のように、一コマにほとんど字しか描かれないような漫画を一方の極に、『HUNTER×HUNTER』(富樫義博)のある週の連載のように、一コマにほとんど人物の大雑把な輪郭しか描かれないような漫画を一方の極として、すべての漫画は、いくつかの絵と字と線が適当に按配された一つのコマを、一ページのなかにいくつか並べることで作られる。



だから、『源氏物語』というほとんど文字だけで物語のすべてを語る作品と、『あさきゆめみし』という絵も字もあれこれ使いわけて物語を語る作品との「ずれ」を話題にする時に、『あさきゆめみし』の台詞だけを議論の俎上に乗せていたのでは、不十分だ。といって、『あさきゆめみし』への着眼点を増やしたとしても、「原作にはない部分」「原作には書かれている表現」「原作とは異なる言葉」「原作と同じ台詞」をひたすらに指摘して、列挙して、比較しても意味がない。この作業が最終的に完了した場合に書き手が得られるのは、『源氏物語』の本文が該当箇所にびっしり漏れなく書き込まれた一冊の『あさきゆめみし』だけだろう。



ここで指摘したい両作の「ずれ」も、この論旨でいけば、「原作には書かれていない部分」に他ならないから、どんなに高精度・高強度の指摘・考察を繰り広げたとしても、けっきょくは、『源氏物語』の語彙体系と『あさきゆめみし』の語彙体系の類似・差異を記述した、大して役にも立たない断片と、徒労感と、過ぎ去ってしまった少しの時間しか得られないのかもしれない。
ともあれ、『源氏物語』と『あさきゆめみし』を横に並べて比較した時、ここでもっとも注目すべき「差異」は二つあると言える。私見では、それは、「小説」と「漫画」の「書き方(描き方)」の異なりに起因している。



一つは、「顔」の有無だ。『あさきゆめみし』には人物の「顔」がはっきりと描かれている。たとえば、『源氏物語』の「むくつけき心のなかに、いさゝか好きたる心まじりて、容貌ある女を集めて見むと思ひける。」に相当するのだろうコマは、文章で書くなら、こうなっている。

(A)太眉で、鼻髭も頬髯もある、顎の割れた四角い顔の「大夫の監」が、烏帽子・羽織姿で、両腕に二人の女を抱きかかえている。女は二人とも額の真ん中で長髪を分けて丸い眉を見せ、読者から見て右手の女は照れ、左の女はしてやったりな顔をしている。二人の女の頭上には吹き出しがあり、それぞれ、(右「国中の美女を/わが花とながめるっ/ちゅうとが/おいの大願/タイ」(左)「おるが口説いて/おちんおなごは/なかバッテン!」(「/」は改行)と印字されている。「大夫の監」の頭上には「豪胆な笑い」を意味するのだろう「わはわは」という字が書き込まれ、その周りに「寵愛」を暗示するのだろう小さなハートマークが四つ浮かんでいる。右端では「豊後の介」が、「大夫の監」の勢いに気圧されてか、冷や汗をかきながら戸惑った顔をしている。


こうして文字に起こしてみるとはっきりわかるが、『源氏物語』に比べて、『あさきゆめみし』のほうが、作中に描き込まれている情報量が圧倒的に多い。といって、『あさきゆめみし』には『源氏物語』中の一文と等量の情報が描き込まれているわけではない。どちらかといえば、『あさきゆめみし』に描き込まれているのは、『源氏物語』の一文を読み、解釈し、想像した(おそらくは、作者の)誇張されたイメージである。『源氏物語』中の一文の「顔」と言ってもいい。といって『源氏物語』のほうが『あさきゆめみし』よりも劣っているかといえば、そうではなくて、ただ単に、「小説」では一文で済むことを効果的に伝えるのに「漫画」ではその数倍の情報量が必要になる、ということだろう。
同じように、『あさきゆめみし』の他のすべてのコマも、「大夫の監」が居丈高にしている「顔」や、「乳母」や「姫君」が呆れてか驚いてか絶句している「顔」が描き込まれている。



もちろん『源氏物語』でも、登場人物が物語に初めて名前を出す時には、身体や服装の特徴がいくつか書きこまれることがある。とはいえ、『あさきゆめみし』のように、登場人物が常に作中に「顔」を出していなければ、対話や発言が「絵」として成立しないわけではない。『源氏物語』には必要ない「顔」が、『あさきゆめみし』では、「漫画」という表現形式の特性に忠実になればなるほど、欠かせないものとなってしまう。「漫画」では、眼も鼻も描かれずまったく表情のない人がコマ中に大きく描き込まれることは、ほとんどありえない。たとえば魚喃キリコしりあがり寿のように、「漫画」の表現形式に多かれ少かれ自覚的な作家の作中には、台詞しかないコマ、何も描かれていないコマが、まるで読者の注意を試しているかのように置かれることはあるが、一般的に言って、「漫画」は「顔」なしでは表現として成り立たない。「漫画」は「顔」に縛られている、と言ってもいい。



一方で「小説」は、「漫画」と比べれば、どんなに言葉を尽くして表現を巧みに厳密にしても「大夫の監」の「顔」を正確には複写(トレース)出来ない「貧しい」表現だ。どんなに文字数を節約しても、(A)を一目で読者に提示することは出来ない。もちろん、「小説」は貧しいが故に枷がないのだ、とも言える。「こうして千年がたった。」や「もう、どうしようもなくなった。」や「翌日。」は一枚の絵にはできない、視覚化できないが、「小説」なら、一行で手軽に済ませられる。この手軽さが「小説くらいなら」といってパソコンへ向かう「小説家志望」を増やす一因なのだろうが、それはさておき、「小説」の貧しさは文字を用いる表現全般にも通じる特性のひとつと言っていい。



二つ目。「語り」の有無。『あさきゆめみし』には「語り手」が現れない。『あさきゆめみし』では、物語を牽引する言葉(台詞、感嘆、回想)は、すべて誰かの発話として語られている。感情の動きは人物の表情や背景の描き込みで表現される。「姫君」が「大夫の監」を避けるように上京しようとする時の不安や期待は、言葉で語られるのではなくて、人物の表情や仕草、背景の描き込みで示される。



一方で『源氏物語』はどうか。それぞれの登場人物や、作中の誰かが言葉(喜び、悔やみ、心配)を語ることはあるにせよ、「人物や、誰かの語り」を語り、物語を駆動させるのは、そうしたすべての言葉の根源・出自となり、「小説」に書かれたすべての言葉を所有する一人の「語り手」である。『源氏物語』の書き手とされている紫式部が、ある学説が主張するように複数の書き手を代表した「筆名」だったのだとしても、長い時間のなかで多くの人に書き写され、書き換えられ、書き直された『源氏物語』には、実質上、複数の「作者」がいるのだとしても、『源氏物語』の物語を語るのは「『源氏物語』の作者・語り手たち」という単一の主体である。



「『源氏物語』の作者・語り手たち」なる「語り手」が生成されるのが、常に「語り」が為された後なのだとしても、一冊の本は、自他の境界も曖昧で、一貫した思考や意志を持たなず、実体も掴みどころもない、一つの「物語装置」から語れるのだ、と言ってもいい。一冊の書物を一人の書き手の生涯や思想と関わらせながら論じる作業も、そうした論者を撹乱させるために一冊の書物をわざわざ二人や多数で書く作業も、この「語り手」の立ち位置をめぐって行われることになる。



『あさきゆめみし』も例外ではない。週間少年誌に連載されている「漫画」のように、この「漫画」が作られるあいだにも、原作者がおり、著者がおり、数人から数十人のアシスタントがおり、それぞれが多忙と〆切に追われながら、案出し、ラフ書き、ネーム、背景、人物、効果、ペン入れを受け持っていたのだろう。しかし、だとしても、一冊の「漫画」が一つの「物語装置」によって描かれていることに変わりはないのではないか。一冊の「漫画」は形式上、一つの筆名と一枚の似顔絵に代表される一人の「描き手」によって生み出される。



ところが『あさきゆめみし』は、一見すると、こうした単一の「語り手」による物語すべての所有を免れているように見える。人物たちはそれぞれ固有の考えと気持ち、言葉と顔を持ち、それぞれ明確に区別された人物として動く。『源氏物語』を読む時にはしばしば頭をよぎる「この言葉は誰が語っているのか?」という問いは、『あさきゆめみし』を読む時にはほとんど浮かばない。榎本俊二のようにわざと敢えてその区別を忘れたふりをする作家も例外的に少数活動しているが、ほぼすべての「漫画」にも同じことが言えるだろう。「漫画」は「小説」以上に「物語装置」による物語の独占が覆い隠されており、登場人物の「自立」が偽装されている。「漫画」のキャラクターは「作者」の手から離れやすいということだ。



事実、「モンキー・D・ルフィ」の爽快な論理の単純化は「尾田栄一郎」という個人の思想と結びつけて語られることがほとんどない。「姫君」の感傷は「大和和紀」とはほとんど結びつかない。